タイエイズホスピスの記録

 

タイ文化の謎への扉

 

 

この本と時を同じくしてこの世に生を受けたオスカーへ。君が個々の人間の相違を越え、あらゆる人々に愛や優しさを感じられる人になることを祈って。

 

 

 

初めに

 

ここに語られていることはフィクションではない。1996年から2004年までの間にタイの地方都市ロップブリにあるプラバートナンプー寺で現実に起こったことの記録だ。そこで日常繰り広げられる出来事を体験する機会があった。1回目と2回目は1996年と1997年に各数ヶ月間。そして2000年初めから4年間の計3回である。

イブ(M.D.)

 

本書は、私自身が病棟での 『現実』に触れて抱いた想い、疑問そしていきどおりが昨日のことのように蘇るドキュメンタリーでありながら、『感傷』、『愛』、『慈悲』、『優しさ』という概念の本質を問いかけています。それは逝った友たちの遺言のような気がしてなりません。

 

                      訳者: 実千子

 

 

タイ人読者の方々へ

 

戦場ではすでに何十万人という人々が戦いに敗れ去った。そして何百万人というタイ人が今なお命の瀬戸際でやっとのことで身体を支えている。タイはおよそ200年前のビルマとの戦いを除いては、かつてこのような手強い敵と対峙したことはない。敗北はタイのアフリカ化を意味し、ひいては国力の低下を誘因とする文化的独自性の喪失を意味する。それはまた、エイズ禍の取り組みにおいて世界に類を見ない成功を治めているタイの地域的、国際的影響力を失わせることにもつながる。エイズ問題は、政治家はもとより教育者、僧そして医師にとり絶対的優先事項である。

タイのエリートたちは処方薬や予算等、必要不可欠なことは全て行った。専門家による研究も進んでいる。いまなされなければならないことは、社会の中間層の人々がこのe戦争fを認識し、子供っぽい恐れを克服することだ。僧はe戦争fを正視し、タイの道徳と文化を守るための指導者とならねばならない。間違った予防策はタイ文化のアメリカ化につながる。教育者の役割は、子供たちに科学を無視できないことを教えることだ。例えその規則が厳密であっても、エイズの予防と治療のためには厳守せねばならないことを認識させる責務がある。そして全ての医師は、この骨の折れるe戦争fと正面から対峙し、恐れず、くじけず、休むことなく戦略を推し進めなければならない。私の記録が、タイの人々がこの最重要課題に注目するための一助になることを祈って。

 

 

 

 

第1部

 

タイの旅

 

コーラットの2輪の花。

私はコーラットに居た。当てもなく歩き回り、疲れて、静かな寺の一画にある庭のベンチに腰を下ろした。何も待ってなどいなかった。ただ静寂に身を置くことだけで満足だった。私は旅行者である。数週間旅に出ようと決心したときの、疲れやストレスを忘れようとしていた。

 

突然どこからともなく一人の少女が私の目の前に現れた。彼女の差し出した手には白い花が握られていた。とまどいとはにかみ、そして感謝の入りまじった思いで顔を赤らめながらその花を手に取った。しかし私が立ち上がるやいなや、少女は茂みの影に駆け込んだ。そんな突然の出会いに当惑していたとき、2人目の少女が現われるのに気が付いた。1人目の少女と同じように可愛い笑顔を見せながら彼女も花を差し出した。こんどは赤の花だ。それを手に取ると、またもや彼女も1人目の少女と同じように全速力で茂みの後ろに駆け込んだ。数秒後、2人の少女は茂みから姿をあらわし、夜の帳が下りる中、笑いながら走り去った。両手に花を握り締めたまま、私はまるで聖母マリアのキスを受けたように唖然としていた。

 

これは1984年に起こったことである。この小さな体験を通して、無償の行為の素晴らしさと、優しさとは何であるかを漠然とではあるが教えられた。この出来事は私を心の底から感動させた、と同時に自分の国ではもう全面的な幸福感を感じることはないだろうと思った。私は25才で、医学部を卒業しようとしていた。もし、あの2輪の花を受け取っていなければ別の生き方を選んでいただろうと思う。そしてタイには住んでいなかったであろう。

 

このエピソードに限らずタイの全てが私を驚かせ、興味をかき立てる。時間が経つにつれこの国の希少性に気付かされる。外見からは体制迎合派と見えるが、この国は私たち、つまり西洋社会に「人生の価値を測る私達の尺度は間違いであり、それゆえに幸福を求めながらもそれを得られない」と最も効果的に教えてくれる。

 

他の国、例えばインドの価値観や相違は驚異の目をみはらせるが、人を魅了するという点ではタイの比ではない。インドは人を傷つけることによって変化させる。反対にタイは、私たちをそのe甘さfで変えてしまう。しかしそれは暴力的な甘さでもある。タイのe暴力的甘さ、それについては後ほど触れる。

 

タイ、その自由

幸運なことに私は35才から働かなくてもある程度の生計が立てられるようになった。そのお陰で2つの選択肢が与えられた。一つは仕事を続けて金持ちになる道、もう一つは仕事を捨て自由をとる道である。私にとり自由は金銭にも増して魅力的なことであった。

 

タイが自由の国というのは議論の余地がない。政策的な面ばかりではなく、タイ人一人一人が内なる自由を体現している。このことは日常のあらゆる場面で見て取れる。自由は、タイ人が社会と関わりあったり、恐怖感と対峙したりする時の特別な方法だ。例えばあなたがバンコックから抜け出したり、タイ人と争いになったり、タイ人女性と結婚したりした途端に身をもってそれを知る。

 

しかし社会に臆病な中間層が増加するにつれ、タイ人の態度全般に変化をもたらしている。その傾向はいたるところで見られる。誰もまともに歩けそうもないタイトスカート、退屈なネクタイ姿や白いソックスは、それを身につけた人々がエアコンの効いた部屋にいるという贅沢を見せ付ける。自由さに欠ける中間層は自分からあえて創造力を取り去り、退屈な人間になってしまったが、そのことで私たちには影響が及ぶことはない。というのはこれら、社会の中間層のe微笑まないf人々は、自分達にとって役に立たない外国人は無視するからだ(例えば英語力を伸ばしたいとか思わないような人は)。eファラングfと呼ばれる白人はタイの上流社会か低所得者層にのみ存在を認識されており、中間層の認識からは外れている。それもタイの魅力の一つだ。反対にカルカッタやテヘランでは、私達に興味を持って話しかけてくるのは中間層だけだ。

 

自由というテーマから少し逸れてしまったようだ。1996年、西洋社会以外で新しい人生を始めようと決めたとき、タイ以外の別の場所へ行くなどというのは考えてもみなかった。しかし、タイはフランスと同じぐらい大きな国だ。「広大な国のどこへ行くのか」ということは運命に委ねた。片道切符の旅、敏感すぎる男をその沼地のような懐に呑み込んでしまう国へ。バンコックに着いてわずか数日後に、私の人生は予測も出来なかった展開になり、私の人生から自由は奪われた。

 

この呪縛から開放され、精神的自由を取り戻した時は2002年になっていた。きっかけは私の働く病棟で、エイズで亡くなった少年の存在だ。彼は、私から自由を奪っていたのはタイではなく、私自身が持つ病的なまでの西洋的感傷主義のせいであると気付かせてくれた。

 

タイ式の感傷は西洋のそれとは違う。社会的上下関係が顕著で、絶対服従を余儀なくされるが、恩義を感じ、終生忠誠を誓うなどということはない。タイ人にとっての感傷はあくまで個人の本質とは一線を画しており、まるで下着を換えるように、必要とあればそれを身にまとい、用がすめばかなぐり捨てる。一方、西洋では感傷が暴虐無人に神経細胞に奥深く根付き、私達をがんじがらめにしている。大多数の西洋人が感傷の奴隷であるが、謙虚さの欠如ゆえにその認識を不可能にしている。

 

 

 

 

ロップブリのホスピス

 

これから私がお話しする寺兼ホスピス、プラバートナンプー寺、そこは単位体積あたりの有害な細菌の浮遊量では、類似の施設の中でも群を抜いている場所である。私が最初に寺に着いた時、あたかも細菌が発光して建物や患者を神秘的に包み、訪問者に静寂と苦悩を強要しているかのように見えた。あらゆる細菌が至るところに潜んでいる。結核菌、インフルエンザ、ブドウ状球菌、トレポネーマ菌などなど。その上、悪いことには、重症の免疫不全患者のみに巣くう、今まで一度も耳にしたことがない何百という種類の細菌も浮遊している。

 

もともと仏教の寺であったプラバートナンプー寺であるが、思いがけない経緯でホスピスになった。ここはエイズ禍に襲われ、崩壊寸前の人間の瓦礫が廃棄される場所だ。西洋人の目からみると、それは常軌を逸した行為に映る。寺という前身のため、ここには住職と数人の僧がいる。その僧たちの大半はHIVの陽性反応者、つまりHIV感染者だ。僧の任務は主に葬儀関連の一連の儀式である。寺は外見的にはどちらかと言えばリゾート地のように映るかもしれない。異国情緒溢れた庭の周りに点在するコテージ、しかしここは人が死ぬために来る場所である。

 

患者は病棟に入って数日で亡くなるのが普通だ。しかし中には運が悪い患者もいて、症状が好転し、『待つ』のを余儀なくされる人もいる。コテージはそれら長い待機期間を過ごす人のためにある。それが1996年、私が初めて寺で働き出したときの状況であった。

 

入院当日に亡くなる人もいる。主に心理的要因からだが、病棟の穢れた空気が引き金になった人もいる。ホスピスに入った瞬間から予後に希望が持てなくなる。細菌の充満した病棟に身を置いていては、重症のHIV感染者には生存の可能性が残されていない。その上、心理的ショックだけでも充分に死因となりうるのだ。患者が寺に着く。するとまず最初の関門が待ち構えている。病棟に続く廊下、そこには70を越す棺桶が積み上げられている。片側は主を待つ棺桶、そしてもう一方はすでに遺体が納められている棺桶。トラックが1日2回、遺体を火葬場に運ぶ。患者は病棟に足を踏み入れる前にこの光景を目にする。そして、病棟はといえば絶望的な患者のひしめく場所だ。患者の中には寺に着いて数時間ももたず、数分で亡くなる人もいる。今も記憶に残っているのは病棟に入り指定されたベッドに向かう途中、心筋梗塞で倒れた患者がいたことだ。

 

死は波のように押し寄せる。その波はあたかも海辺に作った砂の城をのみこむかのように患者をさらっていく。戦いを挑む患者もいれば、驚愕で死に至る者もある。時には何週間も死者の出ない日が続く。本来ならば戦いに敗れ去るほうが自然な場合でも、命の掟を無視しつづけているようなケースも中にはある。そうかと思えば1日に78人の患者が亡くなる日もある。彼らはまるで大きなうねりに巻き込まれたかのように、あっけなくこの世を去る。その当時はたったの一週間で、病棟の3分の1の患者が亡くなるというのも珍しくなかった。しかし入院してくる患者はひきもきらず、週明けの患者数に比べ、週末の患者数が多いというのが普通であった。入院患者もまるでうねりのごとく押し寄せていたのだ。

 

シャンパン

緩やかな死、残忍な死、苦痛に満ちた死、悲痛な死、それらの殆んど全てが不当な死である。愛の意味をはきちがえたゆえの死、相手を信頼したがための死、無知ゆえの死。そして、ただ単に何の疑いもなく夫婦であろうとしたための死とその絶対数の多さ。感染原因が愛ゆえであっても、死ぬ時は1人だ。母親や兄弟、配偶者から見送られる人は十人に一人もいない。感染者数は現在のところ男性の数が女性を上回る。しかし、女性の感染経路が夫からという傾向にあるタイではこれも変化している。その妻たちの大半が25歳から35歳である。

 

患者が息を引き取ったあとの私たちの対応は迅速だ。遺体の清拭、身体の開口部を綿で塞ぎ、洗ったばかりの洋服に着替えさせる。そのあとは、廊下に積み上げられた主を待つ棺桶の一つに納める。遺体には枕があてがわれ、粗い木綿の布地で覆う。一連の作業が終わったあとでも遺体には生前の発熱の余韻が残っている。

 

ある母親が心配しながら尋ねた、「大丈夫ですか?本当に死んでいるのですか?」。彼女の息子はたった今息をひきとったばかりだった。その通りだ、早すぎる。私のとった行動は確かにすばや過ぎた。

 

ある日フランス人ボランティアに呼ばれた。彼女が気にかけていた患者の様子を見て欲しいと言う。もう手遅れだった。彼は今まで充分苦しんだ。それでも私は注射をしようと思った。注射をする部位の向きに彼の身体を動かそうとした。彼はその動きに耐えられず亡くなった。私たちは二人共、非常に居心地の悪い思いをしていた。この悲惨な光景を寝たきりの見物人に披露してしまったのだから。すぐにいつもの遺体処理に取り掛かった。出来るだけ早くこの場を収めたかったからだ。作業の最中、まるで死者の母親のような存在であったフランス人ボランティアがこう言った。「本当に死んでいるの?」。私は惨めな気持ちでこう答えた。「心配しないで。もし彼が息を吹き返したら、綿の砲弾を吐き出すよ。ほらまるでシャンパンの栓みたいにね」。その言葉がきっかけで私達はクスクス笑いを始めた。そんな態度は確かにとんでもないことだ、道徳に反する。私たちの笑いが止まった。観察されていたことに気がついたのだ。一人の日本人ジャーナリストが隠れて私たちの様子を録画していた。

 

私は臆病だった。臆病すぎた。何ヶ月もの経験を積んだにも関わらず。

 

存在の波動

今日までに2,500人を超える患者の死を看取った。もう怖くはない。しかし慣れることなどできない。ボランティアを始めて最初の数年間、患者の最期に居合わせれば自分で遺体処理をした。しかし今はもうその頃ほど親切ではない。

 

患者の口は数秒前まで私に話しかけていた。うめき声を出し、荒い息を吐いていた。今はその同じ口が、綿を詰め込むピンセットが歯にあたり、金属的な音を響かせるだけだ。数秒前まで彼の肛門に触れるなどは、絶対必要不可欠な場合に限られていた、それだけに出来る限りの謙虚さと相手の人格を尊重するやり方が求められていた。今そこへ私は綿を詰め込んでいる。

 

存在の波動。命あるものは神々のおもちゃだ。たった今まで私たちとこの世での存在を共有していた人間の全宇宙が崩壊し、形而上学の世界、推論の世界へと運び去られる。時間は計り知れない力を秘めている。

 

奴隷たちとボランティア

 

奴隷

ホスピスに正規な免許をもつ医師はいない。では彼らはどこに?その件については後述する。

 

私が1996年に初めて寺で働き始めた時の医療スタッフは、英語の話せる正看護婦が一人と数人のe奴隷fがいただけであった。ee奴隷fたちは、ただ生き残る手段として、その仕事に携わっていた。

 

タイ人は私がここで使っているe奴隷fという乱暴な言葉を容認するだろうか? 私はあえてその言葉を使う。なぜならe奴隷fたちの社会的弱者としての立場、貧困、そして多くの場合その愚かさが巧みに利用されるからだ。e平等fを守ろうと躍起になっている文化圏出身の私にとり、この言葉の残忍さの響きのみが彼女たちが置かれている現実を伝える唯一の手段だ。

 

時には仕事量が多すぎて、病棟の外で暮らす感染者も病棟内の作業に駆り出される。もし拒否すれば追放の憂き目に合っても、彼らには何処にも行く場所がない。このような感染者は働かされる病棟、すなわち有害な病原菌の巣窟ゆえに死期を早める。彼らには病棟の患者がもつ菌に対抗しうるような免疫力がないのだ。

 

それより心底驚かされるのは、精神的に完璧に正常で体力のある感染者の中に、あえて危険な場所で働くことを志願する者がいることだ。その内の一人は、「死期を早めるのは承知の上で、仏教の教えに基づいた徳を積むのが何よりも大事なことだ」と私に打ち明けてくれた。彼らの行為を通して、死を待つばかりの人々のそばに身を置くことによって、自身の死に対する恐怖感を軽減できるのであろうと考えるに至った。

 

ボランティアたち

病棟のスタッフ不足(ヨーロッパの基準の約10分の1に過ぎない)は深刻で、それを補うため病棟内であえてしなかったことがある。栄養チューブの使用、静脈鬱滞症の予防、しかるべき隔離処置、食器類の殺菌などなどである。私たちにはこなせる仕事量の限度があるのだ。

 

この時期、西洋人ボランティアが病棟に入るのを制限するような人物は誰一人としていなかった。窮地に立つ人々の何かの役に立つのでは、と考えるボランティアたち。彼らはヨーロッパを主としてあらゆる国からやって来る。快適に過ごせる時期、つまり暑さに苦しまなくて良い季節を選んで来る。ボランティアの動機は様々だ。個人的問題つまりナルシシズム(自己愛)や信仰上の理由を挙げる人がいるかと思えば、好奇心を満足させるため、あるいは履歴書の経験欄を飾るため等々。2.3年前のeセックスツーリズムfに取って代わったようなe人道主義ツーリズムfがいまや大賑わいだ。この原因は個人の問題だけではなく、社会の崩壊にあるのかもしれない。

 

NGO組織の数々、e人道主義の専門家fたちはそんなにe甘くfはない。彼らは「資金管理と職務分担が明確さを欠く」と、哀れな患者達の棲むこのホスピスを退ける。まるで死期の近い人々を見捨てる言い訳にでもするかのように。

 

ボランティアの大半がタイ語を話せない。「現場で覚えられるのか?」、それは難しいだろう。2ヶ月間ほど働いたボランティアが病棟を去るときでも、10語程度の単語しか話せないのが普通だ。それも発音を間違って使っている。

 

我々の大半が自分の能力を過大評価し、仕事の困難さを過小評価している。ボランティアの中には腐臭、苦痛に苦しむ人になすすべもない無力感、ゾッとするような皮膚病患者、身体的リスク、死がもたらす計り知れないインパクトなど、拒否反応を起こしそうなこの仕事の本質を軽く考えている人も少なからずいる。

 

いずれにしろボランティア達は長くは働かない。写真を撮ったあと、何らかの言い訳をしながら去っていく。長期のボランティアも勿論いる。しかしきつい仕事、率直に言うと嘔吐物や排泄物の処理を拒む者や、1日のうち2.3時間だけ顔をだすに過ぎない者もいる。病棟の仕事はボランティアの有無に関わらずこなしていかねばならない。死はその場の状況やボランティアの気分に関係なく昼夜訪れる。e奴隷fたちはボランティアの関知しない時にも、重い足を引きずりながら行進を続ける。

 

しかし中には長期ボランティアとして働き、何物にも代えがたい働きをする人もいる。このような人たちは概ね単独行動で、世間一般という枠を外れた人が多い。何か過去に事情を持った人、ゲイ、芸術家、大金持ち、放蕩者、社会的落伍者。エイズホスピスのような場所で、無給で働こうなどとは、完全には気が触れていなくても、少しおかしな者ぐらいしか出来ない芸当だ。

 

実のところ、これら長期ボランティアたちは、極めて強固な自己管理能力がある人々だ。このホスピスはカルカッタの「マザーテレサ」とは違い、キリスト教系ではないし西洋社会のクリスチャン系ネットワークにも知られていない。そのため、クリスチャン系ネットワークの無尽蔵とさえ思えるボランティアにも知られていない。この寺のボランティアたちは行為を神に捧げたり、教区の人々を印象づけたりするために来るのではない。彼らは純粋に行為を行為として捧げ、見返りは期待していない。仕事の内容はおしなべて「マザーテレサ」のそれと同じだ。私は両方で働いた経験があるのでそれがわかる。ボランティアは職員の補助として、患者の清拭、マッサージ、介抱、食事介助をする。また排泄物を清掃し、嘔吐物を拭き取り、ベッドシーツを変え、尿瓶の始末などをする。

 

ボランティアの効用

ある日、興味にかられた私は、「西洋人ボランティアをどう思うか」と看護婦に聞いてみた。彼女はしばらく考えてから「ボランティアがもっと来てくれたら良いのに」と言った。「どうして?」と私は再び問いかける、「私たちはタイ語さえ出来ないではないか」と。すると、「あなたたちは怖がらないから」と答えた。

 

私は突然大事なことが分かったような気がした。「西洋人は色んなものに怯えているが、HIVの感染は恐れていない」。彼らは気持ちの趣くままに、患者と親しく接している。毎週、何百人ものタイ人見学者が寺を訪れる。彼らは患者にお金や果物を配ったり、優しい言葉をかけたりするかも知れないが、患者に近づくのには明らかに恐怖を感じている。国全体が恐怖でパニック状態に襲われている。これはHIV感染予防策の不備に起因する。ホスピスを訪れ、寄付をするその同じ人たちが、親戚の一人がHIV感染者で、エイズ特有の症状が出るやいなや寺にe捨てfに来る人たちになりうる。それゆえに、ボランティアたちはかけがえのないものを患者に提供している。それは「人間同士の触れ合い」。

 

看護婦の啓示を受け、私は早速実行する決心をした。私が役に立つとしたら、それは患者と触れ合いを持つことだ。ゴム手袋を外して、彼らに出来るだけ触れるようにした。

 

「あなたはこんな私に触ってくださっている。先生、ああ先生。あなたはあえてこんな私に、、、」。一人の女性患者が言い、泣き出した。他の患者も同じ反応をした。彼らは触れ合いを待ち望んでいた。

 

一人、恐怖感を感じさせずにはおかない患者がいた。身体中を傷が覆い、身体の3箇所で骨が露出していた。彼は私を待っていた、そしてこう言った。「先生お許しください。先生に触れるのをどうかお許しください」。そして彼は私の腕を撫でた、彼の右手のひらで。目は潤み、声を詰まらせていた。

 

このホスピスで何年も働いているタイ人職員でも、あえてしないことがある。それを私たち西洋人ボランティアは最初の日からする。それは「触れる」ことだ。私は乾癬や湿疹は伝染性ではないことを知っている、疥癬はそれほど危険なものではない。ヘルペスは重症のケースでも単純性ヘルペス(コールドソア)程度で済む。カポシ肉腫や目を覆いたくなるような重症のアレルギー性皮膚炎(スティーブンジョンソン症候群、ライル症候群)、あるいは恐怖心さえ感じる壊死、それらは恐れる必要がないというだけの知識を私は持ち合わせている。触れるだけであれば、それほど恐怖を覚えなくても良いのだ。私が唯一警戒したのは結核だ。マスクをつけずに働くのを出来るだけ避けるようにした。しかし、ある時点で私は病棟でマスクを外した、手袋を着けなくなったのと同じ理由で。その結果は? もちろん結核に感染してしまった。しかしHIV以外であれば治療が可能だ。そして肝心の

HIVは?感染のリスクはある。しかしその確率は低い。

 

疑り深い僧

一人の僧がベッドでうめき声をあげていた。彼は私を嫌っていた。彼が私を信頼しない理由は、私が救いようもなく無能だ、と見抜いていたからだろうと見当をつけていた。しかしそれだけではなかった。彼は世間によくいる直感的に外国人を信用しない類の人間であった。彼のそんな気持ちを分かっていたので、私の方からも殆んど近づかなかった。僧は何週間も痛みに耐えていた。検査室が無い状態で最終的診断など下せはしないのだが、膵臓病かと見当をつけていた。しかし私にはどうすることも出来なかった。当時、手元の薬はまだ非常に不備な状態であったからだ。初めて彼が私を呼んだ。私は急いで脱脂綿を一握りつかみ、熱湯に浸した。そして火傷しそうなそれを僧の腹部の痛む箇所に押し当ててマッサージした。続いてこめかみをマッサージしながら、彼に短い言葉で語りかけた。

 

「落ち着きなさい。もう戦うのは止めなさい。静かに」

 

彼の身体の痛みはゆっくりと治まって来たようであった。

 

「静かに。戦いを止めて。あなたの身体を解き放ちなさい」

 

僧の息遣いが変わった。私の母国語と思ったのであろう、「サンキュー」と英語で言った。そして15分後、私の腕の中で息を引き取った。その日到着したアメリカ人が、その光景の一部始終を驚愕の表情を浮かべて見ていた。そのボランティアも、その他の誰もが僧がそれほど早くこの世を去るとは予想だにしていなかった。

「静かに。戦いを止めて」

 

私は慈悲の不思議な力を学んだ。

 

 

医者? ああ!

 

パプア人

寺に最初に来た1996年、私は世間知らずだった。私は何も持たずに来た。金、薬、人を雇うための給料、何も無かった。あるのはただ一枚の医師免許のコピーであった。結果的にはそれが私の不幸の源となった。私の仕事は最初から他のボランティアのものとは少し違っていた。ボランティアには違いないが、倫理的義務が伴っていた。私は不満足な役目を押し付けられてしまった。

 

仕事に就いてすぐに任務を理解した。患者を出来るだけ苦痛なく逝かせる手助けをすると同時に、もう一方では患者の中で生命力のある人を見分け、手元の安価で不備な薬で何ヶ月、いや何年も延命しなければならない。後者の任務は比較的簡単に果たせた。症候に応じた薬、会話、マッサージそして介護。これらは効果があった。

 

しかし患者に苦痛を与えずに逝かせる、という前者の任務を失敗なしに遂行するのは難しかった。薬の選択を間違ったために患者がすぐ逝けなかった場合は、私の医療行為のゆえにいたずらに死の前の長く苦痛に満ちた時を過ごさねばならない。時には私の残酷さを無罪放免してもらえそうな、素晴らしい勝利を手にしたこともある。絶望的な患者を何ヶ月、いや何年も命を永らえさせたのだ。持ち時間が限られているという認識がある時、このように延長された時間は、より貴重なものとなる。

 

寺では許された権限の範囲でしか能力を発揮できなかった。タイ文化についての知識をあまり持ち合わせていない私には、それ以上は望めなかった。タイ人のホスト、すなわち寺の幹部の神経を逆なでするような言動を慎むための、ちょっとしたトリックを会得した。自分自身を、例えばベルリンにあるホスピスで働く、パプア人医師と想定する。パプア人がベルリンで働くなど、考えられないほどの苦労が伴うだろう。それに、ドイツ人と較べると、タイ人が自身のアイデンティティに誇りを持つたり、他の人種と一線を画したりするのは当然と納得できる。交渉力を身につけるためには、タイ人の懐に入らなければならなかった。

 

ボランティアとして働きはじめた最初のころの私の置かれた状況は惨めなものであった。与えられた部屋はHIV感染者の僧との相部屋だったが、彼の皮膚は獰猛な蚊の格好の餌食であった。一つ一つ叩き潰すたびに、血のあとが残った。彼の血なのか、私自身のものか?

 

数ヶ月経つと、多くの種類の薬を病棟で使えるようになった。進歩の証しだ。しかしモルヒネだけは手に入れられなかった。それから7年が経過したが、今もモルヒネを使って患者の苦しみを和らげることが出来ない。年間500人以上も死者が出るというのにだ。

 

時間の経過と共に、加速度的に緩和薬や治療薬を使えるようになったが、検査室が無いため確信を持った診断が出来ず、しかし他の適当な選択肢がない場合はリスクを負う場合もあった。

 

ホスピスで働き始めて数日で、否応なしに自分の能力の限界に気付かされた。患者達は信じられないような不思議な症状に苦しんでいる。私が現場で目にする症状の多くが、今までの臨床では一例たりとも経験したことのないものだった。大半に奇妙な名前がついていた。例えば「進行性多病巣白血性脳症」、「液胞骨髄神経障害」、「炎症性脱髄多発ニューロパシー」等々。勿論、最初は非常に困惑した。医学書の中にも見当たらないような症状をリストアップし、自分で命名したものもある。曰く、「ライエル症候群」、「表皮球菌性熱傷症候群」、「麻痺性舌症候群」、「黒色症候群」そして恐ろしい「貝殻状膣症」、「貝殻状陰茎症」そしてその他、どの本でも触れられていない恐怖に満ちた症状の数々。

 

医療従事者

この無尽蔵にも思える様々な症状と直面して、タイの医療従事者の意識のありように驚かされた。これがヨーロッパやアメリカであれば、これほどまでにバラエティに富んだ臨床例を前にすれば、躍起になって研究し、科学の進歩に貢献しようとするだろう。しかしここタイではそんな動きは無い。タイの高名な大学の研究者は、この珍しい症例の宝庫を研究する代わりに、西洋の抗HIV薬(ARV)治療の研究を追従する道を選んでいる。

 

ホスピスの患者の多くが、大きな県立総合病院や専門病院での治療を経て寺に来る。彼らは通常、かかりつけの医師からの紹介状など携えてなどいない。しかし場合によっては、簡潔な手紙を差し出されるときもある。

 

「肺結核症状を呈するHIV陽性患者です。よろしく。X医師」

 

その同じ患者を相手に、私がしなければならないのは、なぜ患者は両足が麻痺しているのか、片目が見えないのか、そして括約筋の自制が出来ないのか、ということを解き明かすことだ。レントゲン、検査室あるいは専門家の補佐がないままの私の診断を支えるのは、私の臭覚、視覚、聴覚、直感そして経験しかない。

 

寺で働き始めたころはパニックに陥り、患者を度々、近隣の総合病院に送り込んだ。振り返っていま思えば、当時の私は世間知らずだった。患者たちはすぐに私に送り返されてきた。彼らの手には頭痛薬の「パラセタモール」が握られているだけで、診断書はなかった。この経験から、「ツーリストドクター」は官僚制度に首を突っ込むべきではないという事を身をもって知った。

 

母親が患者に同行すれば事態は違うかもしれないと考えた私は、一人の患者の母親に、私の紹介状を持って息子に付き添って病院に行ってくれるよう頼んだ。彼ら2人はほんの数時間で戻ってきた。母親が涙ながらに説明したところによると、患者は何の検査も受けられず、私の紹介状が読まれることもなかった。医者はストレッチャーに横たわる彼に、上体を起こして座るように言っただけである。患者は腹膜炎を患っているのだから、それは無理だ。それを見た医者は袋にパラセタモールを詰めながら、「ああ、そうか。それでは1日3回、2錠ずつ。それでは帰ってよろしい」と言った。その医者は患者ではなく、私のせいでそのような態度を取っていると思った。私への見せしめで。ベルリンのパプア人の医者をまた思い出した。いつの日か、彼らタイ人の医者が寺に来て私の役目を引き継いでくれることを期待していた。それが患者や私にとって最良の解決策だ。私は自分の仕事が嫌いであった、と同時にこんな場所で自分の貴重な人生を過ごしているということにも我慢がならなかった。だが、7年後の今も彼らは私の役目を肩代わりしてくれていない。私は問題を軽く考えすぎていた。


 県立病院の医者の不興を買ったのは私だけではない。ホスピスのある県以外から来た患者たちは、出身県の地域病院に一旦かかった後、ホスピスに送られてきている。ロップブリ県立病院はこれら他地域の病院からの患者の診療を拒否する。その上、他県に籍を置く患者の診療に伴う費用負担は更に複雑な問題をひき起こす。

 

もう一つ、状況を理解するために必要不可欠な文化的側面がある。タイ人の医者は面子を重んじる。それさえ守れば非常に優秀な医療従事者であるが、「医者も人間、時には間違いを犯す」と、公の場で認めることをしない。必然的に異例な臨床例を望んでいない。しかしエイズの症例は異例なものが日常茶飯事である。今まで受け取った病院からの紹介状には、「試みた治療がなぜ効果が現れないのか理解できない」とか、「この患者の症状を扱った経験がない」、とかの記述は一度たりとも無い。

 

ある患者は2週間続いた呼吸困難で血の気がなかった。かかっていたバンコックの医者は、「ニューモシストシス肺炎の治療を施したが効果が上がらなかった」という簡単な一行を紹介状に書き添えるような親切心は持ち合わせていなかった。紹介状には単に、結核とエイズという文字があっただけだ。患者は呼吸不全の症状が続いてはいるがまだ生存しているので、私は何かを試みなければならなかった。レントゲン機器のない状況では、一番賢明なアプローチの仕方は、彼女にニューモシストシス肺炎の治療を施すことだろう。患者の状態は当然のことながら悪化の一途をたどった。一流といわれるバンコックの医者がすでに知っていたであろうにも関わらず、我々に伝えなかったことを私が知るのに4日間という日数が費やされた。もし最初から分かっていれば、別の治療法をすぐに試すことが出来た筈だ。この貴重な4日間の間に患者の命が失われるということも充分に考えられるというのにだ。

 

頭痛、拡散性神経節、発疹、進行性麻痺などなど、もし誠意ある紹介状があれば、もっと効率よく対処出来るのに、現実には大半の患者は何の紹介状も持たずに来る。しかし誤解を避けるために付け加えるが、中にはエイズ患者の救済のために相応の努力をしている病院も少数ながらある。医師の中には、入手できる物を使って奇跡を起こしている英雄たちもいる。彼らは、プラバートナンプー寺に患者を放棄する道ではなく、自分に謙虚になって患者を治療する道を選んでいる人たちだ。つまり、タイ人の医師を2つのグループに分けることが出来る。1つ目は、インテリの上流階級出身者。そしてもう1つは、中流階級出身者。まさしくこの上流階級出身者が、その生い立ちゆえに偏執的に面目を保つことに拘っている層だ。そしてエイズを異常に恐れている。時には2つのタイプの医者を同じ病院で見かける。どちらの医者にあたるかは、患者にとって宝くじのようなものだ。

 

ある患者は、侮辱的なことばで皮肉たっぷりにこう聞かれた。

 

「どうして君の有能な外国人の医者に見てもらわないんだね。君は彼のことをそんなに褒めるが、じゃなぜその医者は君をこの病院に回してきたんだね」。

 

そうかと思えば、幸運にも、特別の計らいで総合的な検査を受けて帰ってくる患者もいる。諸々の理由で私に病院に行くことを勧められた患者の不安感はよく分かるが、今でも度々病院に送り込む。しかし1996年当時に較べると確かに状況が変わってきている。私自身も以前ほどは珍しい症状に動揺しなくなってきているので、過去に送り込んだような愚かな理由、つまり絶望的症状の患者をもう病院には行かせない。それは例えば体重

20kgの患者とか、病棟に多数いる麻痺患者などの人たちだ。

 

 

 

なぜここにいるのか?

本当のところ、自分自身でもなぜこのホスピスで働き続けているのか理解しかねている。

― タイ人の医者は私を嫌っていて、患者の持たせた私の手紙に応えない。

― 患者は私を慕っているが、私のタイ人の同僚に対するほどには敬意を表さない。検査室やレントゲンのない場所で診断するという状況では、間違いが起こるのは自分でも認める。

― 無給である。

― 観光ビザでこの国に滞在している。ビザ更新のため、3ヶ月ごとに国を出なければならないが、この交通費やビザ代は自己負担だ。

― この寺のとかくの評判、具体的にはホスピスの不審なあり方や、住職をめぐるゴシップを取りざたする人が、私自身にまで向ける視線をあえて我慢している。

― 健康を害してまで仕事をしている等々。

 

私にこの場所で働くことの是非を問いかけさせた別の体験がある。リュウマチ痛に苦しみ、死期の迫った青年がいた。長い間寝たきりであったが、激痛にのたうちまわるという状況ではなかった。この青年は幸運なことに母親が付き添っていた。「息子が痛みに苦しまずに一夜を明かすことが出来るように注射を打ってやってくれ」、と母親から頼まれた。私は母親の頼みを聞きいれ、夜10時ごろ炎症防止剤を打った。翌朝6時ごろ患者は死んだ。

 

私の日課は、まず最初に棺桶の蓋を上げて誰が私の不在中に亡くなったかを調べることに始まる。その日、昨夜注射を打った青年を棺桶で見たときは心底驚いた。彼がそんなに早く亡くなるとは予想だにしていなかった。蓋をもとに戻すか戻さぬうちに、看護婦が私を目がけて走ってくるのが見えた。青年の母がヒステリー状態で、私が昨夜の注射で息子を殺したと叫んでいる、と言った。看護婦は私がその件を気にしないよう、全ての職員がそんなウソを非難し、団結していると念を押してくれた。

 

私の打った注射が死因になり得ないのは事実だが、この件について職員と母親との間で白熱した議論が取り交されていた。私はそんな中で沈黙を保っていた。「もし自分の息子や娘があんなことで死ななければならなかったらどうだろう」、そんなことを考えていた。私が昨夜何もしなかったら、この母親は私の怠慢を非難していたであろう。これが私たちの仕事の宿命だ。たった一人の医者しかいない場合、そのような危険性が付きまとう。

 

しかし、職員が私を守ろうとしてくれている、そのこと事態はありがたいことだと思っていた。看護婦は世間一般の許容範囲を超えるほど、感情をあらわにしていた。あの日、彼女たちが私を評価してくれていると分かった。そしてその後、少しずつその理由も理解できだした。

ホスピスで注射を打つのを許されているのは3人のみだ。看護婦と、彼女のアシスタントの准看護婦一名そして私だ。責任者である医者がいなかった時、彼女たちは長いあいだ患者に注射するのを拒否していた。今回のようなe事故fを恐れていたからだ。私自身は、そのe事故fのあとも、35人の瀕死の患者の目の前で注射中に、一人の患者が死んだのを経験した。不手際な注射の打ち方で死亡したという噂は、出来るだけ早く死にたいというような患者など殆んどいないこのような場所では、それが真実であるか否かはべつとして、患者の心理面に大きな打撃を与える。そして、その種の疑いは余命いくばくもない人々のコミュニティーを、少なくとも数週間は不信の海に陥れる。

 

患者の密やかなささやきが聞こえるようだ。

 

「何だって? 私たちが生き延びるのを手助けしてくれる筈の医者や看護婦が、あんな不器用さで、私たちを殺すこともありえるだって?」

 

このように極度に悲観的な場所で、ホスピスの患者達がどのようにこの種のe事故fを受け止めるかを簡単には理解出来ない。それゆえに看護婦や准看護婦は恥や罪を免れるために注射を拒否していた。彼女たちは無論、医療に携わる人間としてばかりでなく人間としても、時にはいや大半のケースで、アナフィラキシーショックのリスクをあえて無視してでも最後の賭けをするに値することを知っている。彼女たちはまた、抗生物質の錠剤を飲み込めない患者に、代わりに注射をすれば彼の命を長引かせることが出来るのを知っている。彼女たちが私をかばい、守ろうとしているのは、そういった事情を考えれば当然であろう。私が自分自身を非難する、その自由に任せてくれようとしているのだ。

 

私たちはモルヒネ以上の緩和的治療効果のある療法は施していない。あるいは、比較的症状の軽い患者を、死期の近い患者から離して看護するような設備もない。ここでは全ての患者が、e病友fの激しい痛みと、苦しみに立ち会う。ある女性患者は、彼女自身が逝く前の5日間に、6人連続で隣のベッドの患者が亡くなるのを見た。

 

この時限爆弾のような現象をどのように説明したらいいのだろう? ある日一組の家族がゾッとするような症状の親戚の一人を寺にe捨てるfためにやって来た。エイズ患者には、目をそむけたくなるような皮膚病を発症する人が多いが、この患者はエイズ患者にはあまり見られない乾癬で苦しんでいた。彼はまた、ひどい細菌性感染症の症状を呈しており、皮膚のあらゆるところが長い裂け目を見せていた。しかし症状自体は単純で、治療も可能だが、彼の皮膚の状態を見た誰もが数時間後には死ぬだろうと思った。しかし周囲の予想に反して、私の投与した高用量のステロイド剤と注射で、症状がみるみる好転しだした。これには病棟の誰もが驚いた。そんな名声は私の印象を良くする。しかしそんな彼らが、その名声が永久的になる前に死ぬことを運命づけられているなんて。。。

 

同じ時期に、1人の僧が病棟に来た。様々な不快症状を訴えていた。潰瘍もあるようだった。彼はそのために何処から手に入れたのか、ものすごい量の薬を携えて来た。友人とおぼしき僧が頻繁に見舞いに訪れていたが、医学的論理に矛盾するそれら多量の薬を、毎回追加していく。寝たきりの僧はその上に私の治療を望んだが、素人療法の薬を止めるのであればやっても良いと宣言した。2日後、彼はまだ私の言ったことに従わず、山のような錠剤、カプセル、粉薬、シロップを飲み続けていた。私はそれに対して手のうちようがなかった。特に彼が僧という立場ではなおさらだ。

 

この件の一部始終を知っていた私のスタッフの中でも優秀な准看護婦デンが、僧の薬を没収する役目を自ら買って出てくれた。僧には彼女に抗う力が無かった。彼の友達、もう1人の僧は、友人と自分の立場が悪くなってきたと感じると同時に、皆が絶望的だと思っていた他の患者たちの健康状態が好転してきているのを見て興奮しだした。

 

最初は早口すぎて彼が何を言っているのかはっきりとは分からなかったが、その態度は丁重とは言い難く、私を非難しているであろうことは理解出来た。とりあえず、寝たきりの僧のところに行き、容態が変わったのかどうか見に行った。何も変化は無かった。そうしてから友人が落ち着くようにその場を離れた。すると一人の准看護婦がもっと簡単な言葉で状況を説明してくれた。友人の僧は、「私が寝たきりの僧の薬を盗み、他の患者に処方したのでその患者たちの容態が良くなってきている」と言っていると。それを聞いた私は逆上した。生来の恥ずかしがり屋の精神構造の特徴は、一旦限界を超えると恐ろしく獰猛で情け容赦がなくなることだ。私はドアを開けて僧に掴みかかり、乱暴に押しながら、彼のバカさ加減、悪意、恩知らずさ加減そして無知を、私がそこまで話せるとは考えてもいなかったタイ語で口を極めてののしった。もう一度彼を掴むと職員が私のベルトを持って抑えようとした。その僧は小柄だったので、私に食い殺されてしまうかのような恐怖感を持ったであろう。そして彼が間違っていたと気がついたのか、口の中でブツブツと謝った。私は彼を食べる代わりに、放り投げることで気持ちを納めた。病棟全体が一種のショック状態でシーンとしていた。

 

それは大変な不祥事で、罰当たりな行為だ。この国の僧を侮辱するなどとは、ローマ法皇の前でバチカンの献身的な司祭を足蹴にするに等しい。私はその場を離れた。冷静になり、パプア人医師とベルリンという命題を考えるために。衆目が一致して、非は僧にあると認めていたが、私自身は僧を押したりしたことによって、住職がこのどうしようもない医者を追放するのではと恐れていた。

 

ホスピスで働き出して3週間もすると、毎日驚くようなことが起こるのにも慣れてきだした。しかし私のどこか深いところで、何かが砕けた。生まれて初めて不眠に悩まされ、悪夢にさいなまれるようになった。

 

私は死刑執行官であった。しかしその任務にも関わらず気持ちは受刑者と共にあった。それゆえに、一番苦痛の少ないやり方で死刑を執行できる方法を探していた。と同時に私自身も同じ目にあう日がいずれやって来て、私がいま儀式化しているその同じやり方で処刑されるというのも分かっていた。

 

   死刑執行官の私は、トーチランプの光をあてながら、囚人を一列に並ばせる。トーチランプの光の届く範囲は、目に見えない暴君の命令のままだ。囚人は従順に列を作る。死刑囚は足場を一歩一歩上がっていく。空から輪なわが降りてくる。その縄で囚人たちは絞首刑になる。一人の囚人が輪なわを胸に当てようとするが、死刑執行官の私がそれを首に持っていく。突然巨大な杭が何処からともなく現われた。十字架刑に使われるような杭だ。その杭が哀れな囚人の胸を貫き、血が噴きだした。

 

目が覚めると、私は悪夢の記憶に苛まれ、罪悪感と無力感に悩まされた。なぜ私は暴君を暗殺しようとしなかったのか? 以前は悪夢を見ることなどまれにしかなかったし、気にもとめていなかった。しかしこの悪夢の間隔は日に日に短くなり、ついには毎日苦しめられるようになってしまった。「精神的に疲れきっている」、そう思った私はバンコックに行き、数日静養しながら考えてみることにした。バンコックに着くとホスピスを懐かしがっている自分に気がついた。これには自分でもビックリした。患者たちが恋しかった。ついに私の生まれながらの感性が根底から覆され、優しく、大人になり、不思議な力を持つ、ある精神状態に至ったと感じた。そのことで決心がついた。これからしばらくはホスピスで過ごそう、そして2.3年後にはまた状況を見て判断しようと。

 

バンコックで泊まった宿の私の部屋は、窓もない安くて汚い部屋だった。部屋のドアの一つは廊下に出るため、そしてもう一つは浴室に続いていた。私は早めに床についた。疲れきっていたのですぐに眠りに落ちた。悪い夢を見ていた。

 

   私の部屋は檻で、ベッドを囲んで鉄枠が嵌められていた。およそ10の影が暗闇から現われ、鉄枠の方へ向かって来た。そのうち3つの影が私に触ろうとした。私は恐怖で身動きが出来なかった。大声で叫びたかったが、それも出来なかった。影が浴室に向かって動き出した時、頭の一部で覚醒している冷静な自分が、「今のは夢で部屋は檻ではない、そんなはずはない」と思っていた。ならばこの影は実際に私の部屋にいる人のものに違いない。そのあと浴室に消えて行った別の影を見たときは、私は完全に目が覚めていたと今も信じている。

 

突然、身動きが出来るようになった。ベッドを飛び降り、ライトのスイッチに向かった。

以前就寝中に一度経験したことのある、泥棒の仕業かどうか確認したかったからだ。誰もいない。もう一度横になったが、ひどく動揺していた。再び眠りに落ちると夢の続きが始まった。

 

   鉄枠を通して、私に触ろうとしたのは、死に際にeサンキュウfと言った僧に違いなかった。再び現われた彼は、「プレゼントに欲しいものがあるか?」と聞いている。私は当惑しながらも、「あなた方の言葉をもっとうまく、恥ずかしがらずに話せるようになりたい」と答えた。

 

夢は半覚醒状態でジェスチャーを伴っていた。明かりをつけ考えた。たった今の現象は現実ではありえない。夢でもなく幻覚のようなものだろう。それは今まで全く経験したことのないようなものであった。もし根拠を問われないのであれば、私は幽霊を見たのだとあえて言ってしまう。そしてもう一度出会いたいと思う。次はもう怖くはないだろう。

 

   私は囚人を串刺しにするよう命令されていた。私の任務は囚人の動脈を見事に

断ち切り、出来るだけ早く死に至らしめることであった。見物人に手本をみせた。彼らは明日私を串刺しにするからだ。しかし苦痛に何ら配慮しない私の未来の死刑執行官の未熟さと無関心さ加減に不安感を持った。

 

私の番だ。死刑台への足場を上がって行くにつれ、断末魔に苦しむ囚人のうめき声が聞こえてくる。

 

 私は病気だ。ノイローゼだ。

 

狂気

精神異常は、病棟で毎日目にする現実だ。脳がわずか数分の間に完全に理性を失うが、感覚は残っているというのは不思議で厄介なことである。長い間充実した交流があった同じ人物が、突然、私を認識しなくなることがある。ある患者はコップを床に投げつけたあと、ベッドに裸のまま突っ立ち何か脈略のないことを喚きだした。翌日、彼のことが心配で話しかけると既に理性を取り戻していて、人の話を聞いたり、会話が出来るようになっていた。そのあと、私は急いで彼のもとに行くよう呼び出された。また興奮しているのだ。彼を見るやいなや、コントロールは不可能だ、縛るべきだと判断した。小柄な彼を押さえつけるのは簡単である。そうしておいて彼の額に手を置いて尋ねた。

 

「カニット、どうしたと言うんだ?」

 

彼は静かに答えた。

 

「分からない」

 

しばらくすると、落ち着いた彼は自分で服を着だした。

 

ある種の脳炎患者は抑制がきかなくなり下品になる。しかし別のタイプの脳炎患者は最後まで理性を失うようなことは無い。また脳の構造の複雑さと、我々の知識不足を再確認せざるを得ないような、珍しい症状もある。

 

奇妙な症例としては、痴呆の本人が自分の症状はさておいて、他人の精神異常を指摘するケース。私の質問が患者の頭に反響するのか、同じ答えを50回あまり繰り返すケース。話す時にタイ語を使わず、数日前には話せなかったつたない英語しか使わないケース。最後の症例に関して一言付け加えると、タイ人は一般に学校で習うベーシックな英語の知識はあるが、実践に使うのはまれである。

 

1人の患者が大きなジェスチャーで私に合図をする。私が側に行くと、私の時計を指差して、

 

「安物!子供のおもちゃだ。本物を使っていないね」。彼女はその後に付け加えた。

 

「でも、あなたのシャツとってもステキ!」

 

私がホスピスで働き始めたころ、「黒わし」と呼ばれる患者がいた。このニックネームは彼の身体に彫られた刺青の図柄から来ていた。一時期、彼の状態がホスピスの外を散歩できるまでに回復したことがある。ベッドを離れ外に出た彼は優しく吹く風に身をまかせ、屏風のように寺を見下ろす山の色合いを楽しみ、木陰に憩い、自然の香りを楽しみ、新鮮な空気を吸った。そしてにこやかな笑顔をみせ、時には朗らかに笑っていた。彼は「いつかホスピスを出て、しばらくは寺の敷地に点在するコテージに住むことが出来るようになる」と信じただろう。

 

そのあと、「黒わし」は再び滑降した。文字通り骨と皮だけになり、10日間ほど生きる屍のように命を長らえたあと、安楽死をさせてくれと私に懇願した。私は臆病者である。しかし、もし私一人であれば彼の苦しみを救うために少しぐらいリスクを負っても良いと思った。が、私には格好の言い訳がある。それは「周りの見物人に配慮をせねばならない」ということだ。

 

別の口実もある。ホスピスでの仕事に関しては、私は法を侵している。まだ観光ビザしか持っていないので、正式には注射をしたり抗生物質を処方したり出来ない。私がモルヒネを使用できないのもそのためである。しかし、タイ人の医師が普通するようなことを私もやっているのを皆が知っている。タイの英字新聞「バンコックポスト」とタイ版「リーダース ダイジェスト」にあえてその件について投稿した。勿論、私のウエブサイトもその件について触れている。そのウエッブサイトは国際的に知名度を得て、年間100万ページ以上アクセスされている。私自身はタイのエイズ関連のネットワークで『掃き溜めのクズ』として知られるようになった。勿論、今までも何度か現状を変えようと努力したが、問題に興味を示し、現状を打開するのを手助けしてくれるような人はいなかった。最終的に私が決断したのは、患者を見捨てるよりは、自分が現状に甘んじるのが最上の策であろうということだ。私は不法で働く道を選んだ。だから私の立場は弱い。寺、厚生省、入国管理局等々、私の命綱を握る人たちにいつ何時追い出されるか分からない立場である。あえてこの苦しい立場を選んだのは、ベルリンのパプア人医師よりはましと自分を慰めるすべを身につけたからだ。

 

タイが外国の影響から身を守る方法に長けているということを、私自身は良いことだと思っている。タイ人はいつまで法律とのこの微妙な関係を持続できるのだろか。この国は、その関係をまだしばらくの間はうやむやなままにして行くのだろうか。人々が法律と、法律の精神の差をかぎわける術は絶妙であり、ここにもタイの自由さの秘密が隠されている。西洋人と違って、タイ人は「違法の親切」と「犯罪」の意味を取り違えていない。医療の世界では、一つ間違うと「犯罪」ともとられかねない「寛大な処置」をするなどは日常茶飯事だ。

 

ある日、25才の元プロスポーツマンが病棟に入って来た。彼は非常に弱ってはいたが、とくにこれといった症状はなかった。ある朝、「意識不明のようだ」とスポーツマンの友達が言いに来た。急激な症状の悪化だ。そのあとすぐ彼は激しい痛みに襲われだした。息も絶え絶えである。予想もしなかった事態だ。もう打つ手は無い。しかし手をこまねいて死を待つよりは、とステロイド剤注射を打つ決心をした。意味がないことは分かっていたが、彼の友達が何とかしてくれと懇願している。注射針にかすかに反応した。しかし私が、注射液を入れずにその針を抜こうとした、まさしくその時に彼の友人が叫んだ。

「息をしていない!」

 

ビックリして、彼を蘇生させるためしばらく心臓マッサージさえ試みたが、彼はついに息を引き取った。その成り行きを息を詰めて見守る全ての人々の前で、まるで舞台俳優の如く私自身が死後の処理をした。

 

注射針が原因での死、そのことは私の過密な病棟での医療行為の中で、長い間一番恐れていたことだ。今回の患者の死因が医療ミスであるというような噂が患者の間に広まることを恐れた。それは患者の私に対する信頼を傷つける。その上、その影響は長引く可能性があるが、患者が理解できないことを私が説明する方法もない。しかし実際の反応は予想に反して素晴らしく同情的であった。彼の友達は事故は不器用な失敗だと信じて疑わなかったが、こう私に言った。

 

「先生は出来るだけの事をしたのだから気にしないで」。「仕事を続けないと駄目ですよ。患者はあなたを必要としていますよ」

 

周りを取り囲む死期の近い患者は沈黙を守っていた。コテージに住む患者も私の前では彼らの考えを直接言わないだろう。多分これからも何も口に出さないが、1人で心配するのだろう。

 

平凡な話

 

イサラ

彼のニックネームはイサラ、タイ語で「自由」という意味だ。彼は両親の顔を知らない。孤児院の前で捨てられていたのだ。彼はたぶん数週間中にAIDSで死ぬのを運命付けられているだろう。年は22才。頭が良く、文句も言わず病棟での手伝いをしていた。イサラが私にシャツを呉れた。それを身につけると、看護婦や職員そして他の患者から、賞賛の声が上がった。大声で口々に誉めてくれたのでイサラにはその声が聞こえる。それが私には嬉しかった。

 

イサラは患者の中で一番の美人に夢中になった。しかし彼女の拒否が彼を狂わせうつ状態に陥った。それが原因で病棟に入ってきた。状態は日に日に悪くなり、「子供時代に過ごした孤児院に帰りたい」としきりに私たちに懇願した。イサラは、病気ではなく弱っているだけで、本当は病棟の外で暮らせるのだが、それをするためには、夕方の祈りと瞑想が義務付けられていた。その儀式は急な階段を上った小さな寺で行われていた。しかし、彼にはそこにたどり着くまでの体力は残されていなかった。その結果、近くのベッドの患者の1人から病気をうつされ、死期を早めてしまった。イサラはそれから3週間後に亡くなった。仏像への階段は、処刑台への階段とは反対の意味があったが、イサラの場合には同じ結果をもたらした。

 

一番大きな吼え声

偶然の不運が重なった。病棟は満員で、ベッドとベッドの間にスペースがないほどであった。新たに到着したその患者は、ひとまず病棟の外に置かれたベッドに寝かされた。私も病棟で手が一杯で、彼に気づいていなかったので、診察が出来ていなかった。病棟の一人の患者が亡くなり、彼の分のスペースが空いた。しかしカルテはまだ届いていなかった。私の簡単な問診に無作法な答え方をしたりしたことからも、まだそれほど緊急に手当てが必要とは思えなかった。私も仕事が立て込んでいたので、詳しい診察を翌日に引き伸ばすことにした。その翌日、私はまた緊急の患者に手を取られていた。カルテも依然届いていない。彼もまだ大丈夫のようだ。私は診察をもう1日遅らせることにした。

 

その朝、職員の1人が片手に聴診器を持ち、もう一方の手で私の手を掴みその患者のベッドへ連れて行った。彼の兄弟が一緒だった。その男が叫んだ。

 

「なぜ、診察しないんだ。なぜ弟は何も手当てを受けていないんだ。これはお前の義務だ。お前はそのためにここにいるんだ。なぜ他の患者を優先するんだ!」

 

私自身が間違っていたと分かってはいたが、彼の傲慢さにショックを受けた。その男に反論した。曰く、「君の命令、意見、無作法さは私には何の関係も無い。君の弟をいつ、どのように診療するかは、他の誰でもない私だけが決めることだ。私はこの糞のような仕事で給料は一銭も取っていない。だから誰にも何の義務も無い。もし私が君の愛する弟を手当てすることがあるとしたら、そんなとんでもない考えが、万が一にも私の頭を掠めることがあった時だけだ」。

 

こいつは一体何様だというのだ。こいつに一番強く吼えられるのは私だという事を思い知らさなければならない。

 

そんな怒りの発散の仕方は、私の緊張を解きほぐす不思議な効果がある。この種の怒りは、いつも患者か家族の無礼さがひき起こす。何度か同じように怒ったことがあるが、それは同時にどうしようもない後味の悪さを伴う。事後、私はいつも関係修復するよう努力したが、時にはそれが不可能なこともあった。なぜなら修復する前に患者が死んでしまうこともあるからだ。私はいまも非常に粗野な19才の少年に良心の呵責にさいなまれ続けている。彼を死のわずか数時間前に侮辱してしまっからだ。

時には喚く私だが、時には凪いだ海のように穏やかでもある。ある日、私はおそらく数時間以内に亡くなってしまうであろう患者を診ていた。当時の私は、まだ患者に対し、我慢強く親切かつ寛大であった。その時一人の女性が私の側に来て、私のすることを観察していた。イサラが夢中になった女性だ。彼女は私に言った。「先生、私が逝くときも、同じようにしてくださいね」。少しうろたえながら、私は答えた。「あなたの順番はまだまだだよ」。そう言う私に、「毎週1kgずつ体重が減っているの」と答えた彼女。それから考えると、この先どのくらい生きられるのかと。

 

70個の空の棺桶

私が1213才の時見た戦争映画に、レジスタントのグループがナチスに処刑される場面で終わるものがあった。受刑者は一列に並び、処刑場所の壁に向かった。壁の近くには、蓋を開けた棺桶が置かれていた。『まだ生きている受刑者たちが、その数分後には自分たちの死体が納まるべき棺桶を通り過ぎねばならない』などとは処刑より酷い拷問であると子供の目には映った。

 

1996年、私がこのホスピスに初めてきた頃は、病棟に入る患者は1人残らずその拷問に耐えた。ここで目にすることはすべて現実離れしているので、空の棺桶が患者の苦悩の元凶であると気付いたのは働き始めて数週間経ってからであった。私たちは、病棟に入るときは受身である。それゆえに無意識下で現実の全てを受け止め、明白なことを記憶に留めない場合がある。病棟を通り過ぎた、数え切れないほどの訪問者が棺桶に気がつかなかったと私に告白した。70もあるのに!

 

戦場

毎月、死者30人ないし60人。世間には他にもっと酷い状況があるかも知れない。しかし、この数字のeたちfの悪いところは、その30人ないし60人の大半の人々が私たちと知己の間柄で、中には本当に親しくなった人も含まれていることだ。彼らは旅立つ前に私たちの胸に思い出を遺していった人ばかりなのだ。それに較べると、血まみれの戦場から1100人の遺体を収容する方が気持ちは楽かも知れない。何故なら、私はその100遺体について、生前の美醜や、性別、あるいは年以外は何も知らないからだ。それに較べて、毎月30人から60人の死は、私が一人一人、名前を知っている人たちだ。そして、霊となった彼らは、独特の声調で私に話しかける。

 

死の下品さ

死は概念ではなく、生の付属物だ。死は生きている。私はその死に出会ったことがある。

 

その日、私と同年齢ぐらいの男の傷を手当てしていた。その傷はヘルペスが悪化したものだ。男は咳をし、大きな血液の塊を吐き出した。そしてもう一度咳をした。今回はそれほど激しくはなかった。その瞬間、どす黒い血が一瞬にして男の喉と口に溢れたかと思うと、歯の間と鼻孔から流れ出した。男は恐怖で目を見開いた。血に溺れそうになっていることを男は知っていた。この命の流れを吐き出す、男にはそれしか出来なかった。私は彼の身体を掴み、身体の向きを変え、気道を確保しようと試みた。男の身体は私に倒れ掛かり、私はその身体を腕で受け止めた。生暖かい血の洪水は続き、床、私のふくらはぎ、足元へと流れ落ちた。どのくらいこの恐怖が続いたのか分からない。突然、死が姿をあらわした。死は血の影に隠れていた。死は私に軽く触れながらあざ笑っていた。その時、私が支えていた身体が後方へよろめいた。私の肉体は、男の身体の張り詰めた筋肉が柔らかい縫いぐるみのようになる、その一瞬を感じ取った。死は生の抜け殻ではない。死は、息も絶え絶えの私たちの肉体を貫通する杭そのものだ。そうだ、死という手荒な暴漢には「杭」が一番適切な表現方法だ。

 

私の後ろにいた職員が叫んだ。「気をつけて! 血!」

 

男はウイルス性の危険物をそこら中に撒き散らしていた。1ミリリットルで100人の兵士を殺すことが出来る危険物を。死は私が抱いていた男の真髄を盗み去った。死は腕の中に空の袋を残して去った。彼の口からはまだ血の波がゆっくりと流れ出していた。死がそれほどまでの下品さで事を進めるとは想像もしていなかった。我に返った私は、遺体を他の人に任せ棺桶を取りに行った。まっすぐ歩くことが出来なかった。20分後、まだ足が震えていた。私は死のそんな下品さを憎む。

 

子供の臭い

時には子供が死にに来ることもある。子供が放つどんな臭いであれ、本能的にe芳香fのように感じ、もっと愛さずにはいられなくなる。しかし創造主はつむじ曲がりだ。e悪臭fを放ち、自己主張する大人を助ける時、平静さを保つのはむつかしい。

 

優しさ

 

「やる気」は自主性のない任務には効果がある。それは種まきをする農夫の仕事のように、天の恵みを得るのに必要な条件、つまり自然の摂理に叶ったやり方を全うさせうる。しかし、神性は別の場所から訪れる。

グスタブ ティボン(フランス人哲学者)

 

「優しさ」の力は大きくて、恐ろしいほどだ。二言三言の愛情のこもった言葉やしぐさだけでも、死期を早めることができる。「優しさ」は、時には人の息の根を止めるに不可欠な要素となる。患者が最期の段階を迎えながらも、死に抗っているとする。彼らは冷たくなった四肢や、息も絶え絶えの状態でも死を受け入れず戦い続ける。しかし、優しく言葉をかけたり、彼の額にそっと手を置くだけで、今まで離れるのを拒否していた皮膚製の袋を離れる。

 

ある若い患者が、死への旅立ちをもう何週間も遅らせていた。彼には母親が付き添い、彼に覆いかぶさる「死の影」を注意深く観察していた。母親は息子が最期の時を迎えていると察知する度に私の手を掴み彼のもとへと連れて行った。彼女は私の「優しさ」が患者をより安楽に死なせる手助けになると信じていた。私もそう思っていたので、こう言った。

 

「静かに。もう争わないで。君は一人ではないよ。さあ、あそこにお行き」

 

彼は旅立った。

 

『優しさ』。その真髄への到達は、めったにない偶然の所産だ。優しさの本質は力を誇示しない、そして魂の美を超える。私たちがこの偶然を掴みとるのはまれで、少数の人のみがその偶然の機会に恵まれる。

 

だから私たちは周りの人と同じぐらい優しくあることで満足している。老女や盲目の物乞い、鬱病の未亡人あるいは泣き叫ぶ子供に当たり障りのない程度に優しく接している。

 

私たちは奇跡を求めない。奇跡は聖人だけのものだと信じているからだ。しかし、ホスピスの病棟の暗闇に身を置く私は、優しさにエネルギーを与えるのは、個人的な美徳や善行の故ではないということを確信を持って言える。私は奇跡が起こるのを見たし、自分でも奇跡を起こした。

 

状況だけでは、優しさを創造するのに不充分だ。それに加えて身体的能力が必要だが、これは学歴、知力あるいは仕事とは関係がない。

 

優しさを表現するのは外観、言葉そして態度が主な手段だ。しかし優しさを創造する魔法は想像もつかないほど複雑、難解で私たちの知力で創造するのは不可能だ。

 

何千もの小さな筋繊維が、空間と時を通して完璧に融合し、私たちの眼に説明しようのない甘美な表現力を与える。そうだ、顔は、「驚くべき価値を持つ双眸」、すなわち苦痛に苦しむ肉体を破壊し変貌させる力のある、2つの眼を賛美する枠であり価値の原動力でもある。

同様に、空間と時を経て完璧に融合した筋肉の収縮の何千もの微細な陰影が、喉と口から、優しさで刻印された表現しようもない甘美な言葉を織り出させる。この優しさの刻印は、言葉に含蓄をもたせ、優しさが大きな羽を音の世界に広げるのを可能にする。優しさの刻印は、香水が空気中で芳香を放つのと同じように言葉に溶け込む。瓶に入っている香水は化学物質に過ぎない。しかし一旦容器から出ると膨張し、存在感のある魅惑的な女のようになる。

 

また、空間と時を経て完璧に融合した、緩慢さ、圧力、動きなどの手の筋肉の収縮の微細な陰影が、その織り成すしぐさに、成し遂げようとしている行為を超えた情緒的な価値を与える。すると優しさは、どのような行為をしている時にでも、文字通り手から溢れるように流れ出す。患者の汗を拭く、口を潤す、嘔吐物を洗い流す、注射をする、あるいはただ触れる、または触れられる。

 

これだけではない。もっと複雑な面がある。状況と身体的能力だけでは不充分なのだ。それらは必要不可欠な条件の一つに過ぎない。もう一つ必要な条件は、優しさの探求がある意味で素質であるべきである。この条件も私たちがコントロール出来るものではない。私自身も何度か試みたが、それは道徳的欲求からの優しさであると、惨めにも認めざるを得なかった。それは優しさの代用品で、それでは瀕死の病人を騙せない。何も起こりはしない。偽の慈善行為、偽善的優しさ。行為自体はおそらく普遍的な賞賛を得る努力の結果ではあっても、ごまかしに類するもので、患者はそれに気付いている。その気付きは、反対に恩人に対する怒りとなって表現される場合もある。それより多いのは、これも矛盾に感じるが、瀕死の病人が慈悲深い笑みを浮かべることだ。病人も義務的であっても優しさを発揮するのは善行と知っているからだ。

 

優しさにエネルギーを注ぎ込む純粋な欲求と、真実の慈悲は何処から来るのだろうか。私には分からない。その泉は私自身の中にあるように見えるが、私自身ではない。「彼」だけ、または「私」だけでは優しさを創造するには充分ではない。私たち双方が持ち合わせない、別の可変的要素がある。

 

奇跡を起こすような親切さは、無条件の欲求から生まれる。苦痛にあえぐ人は、何も美人や子供であったり、特定の性別であったり、清潔あるいは性格が丁寧で感じのいい人ばかりではない。この「優しさ」は伴侶や子供、あるいは母に注ぐ「愛」でもない。

 

「彼の恩知らずさ加減、残忍さ、悪臭そして醜さは問題ではない。なぜなら彼は彼であ

ったし、私は私であったから」

(モンターニュ)

愛は確かに美しい、しかしそれは特定の人、例えば私の伴侶、子供そして母にのみ向けられるもの。愛は優しさより簡単だ。なぜなら愛は、寛大さというよりは、本能だからである。しかし愛はその及ぶ範囲の外では言葉にしか過ぎない。

代用品の愛、代用品の優しさ、それら無能な代用品は苦しむ患者を困惑させるばかりだ。代用品を与える人々は、潜在意識に押し隠してはいるが、苦しんでいる人を餌食にする必要がある。彼は全身全霊でそのカーニバルを楽しむ。彼はジェスチャーに没頭して、自分自身がひき起こす苦痛に気がついていない。

 

私は優しさを駆り立てる欲求の本質を、長い時間をかけて分析した。そのことは、私たちふつう「愛」と認識していることに疑問を投げかける。西洋文化は妄想と愛に溢れている。

 

妄想、その一番の被害者は子供と精神障害者だ。私は少しずつ妄想が持つ秘密を明らかにしていった。子供たちは遅くとも十代で仕返しをする。そして真実の優しさを得られなかった欲求不満をぶつける。そして、「保護」の目的で沈黙や隔離を強制された精神異常者は、私達を精神的に圧迫する。

 

私が理解した優しさは、一部の哲学者や神学者の言う「アガペ」、すなわちキリスト教でいう「神の愛」に近いと分かった。それは「コーラットの2輪の花」にも共通している。

 

「優しさ」は状況、態度、欲求の所産。これで明確になった。私は、私の眼の色に責任がないのと同じ次元で、「私の優しさ」に責任が無いのが分かった。私の意識が及ぶ範囲ではないのだ。私ができる事と言ったら、「優しさ」が自分自身から創造されるのを拒否することだけか? いや、「優しさ」は意識の及ぶ範囲にはないのだから、それも無理だ。望むと望まざるとに関わらず「優しさ」は私自身から生じ、ある場所から別の場所へ移動する。私の許に留まるのは束の間だ。私は導管に過ぎない。

 

神々は強欲だ。神々は、例えばホスピスでの私がそうであるように、私たちの卑しい手がもつこれほどまでに大きな力を恐れているのだろう。

 

 

2

 

最期の配偶者

 

レディーボーイ

「優しさ」、というこの美徳を少しずつ理解しかけてきたにも関わらず、私は失望していた。1998年初頭、およそ10ヶ月の期間を置いてホスピスに戻ってきた時、私の優しさの質が以前より劣り、期待していた程ではないのに気がついた。勿論、優しさは意思の産物ではないということは了解してはいたが、優しさを生みだす準備が出来ていると思っていた。その週、ホスピスでは5人か10人の患者が亡くなった。何も特別なことではない。しかしその全員が私の不在中に息を引き取った。

 

およそ10日位たってから、ついに、、、

 

私はレディーボーイに呼ばれた。e彼女fの人生最期のジャンプを私が証人になるのを望んだのだ。彼女は数日まえから苦しんでいたが、誰もあまり気に掛けていなかった。彼女は神の慈悲のような、軽度な身体の反応にも大げさな声をあげた。長い髪は脂ぎっていた。肉のない整形した乳房は、二つの空のバッグのように彼女の骸骨にも似た胸に垂れ下がり、皮膚は骨ばかりの身体をくるんでいた。まるでコンドームがペニスを包むように。臀部の黒い大洞窟は彼女の肛門のあったところだ。そこに生えかけの黒い毛が見える。彼女は本当に醜すぎた。

 

しかしその時、以前感じていたような不思議な感覚に襲われた。彼女の許に行き、ベッドに腰掛けた。そして、彼女が寝たまま、私の身体に腕を回すに任せておいた。私も彼女に触れ、抱きしめ、手を取って優しさを伝えた。

 

「怖がらないで。静かに。もう戦わないで」

 

彼女は最初ひどく驚いていた。眼は不思議な光を放ち、絶望的な苦しみを感じている人特有の戸惑いを見せていた。それから全身全霊を究極の緊張状態に投じた。彼女はもう私を見てはいなかった。恐怖を全身に表しながら、私には見えないあの、『杭』を見ていた。彼女の筋肉は張り詰め、捻じ曲がった身体はまるで嵐の海で丸太にしがみつくように私の身体を掴んでいた。彼女の人生は性的苦悩を中心に展開した。今、彼女の命は、強姦を通して経験した形而上学の苦悩、すなわち究めて抽象的な苦悩の嵐を引きずり回している。彼女の眼は大きく見開かれ、視線はまるで「ピディアスの銅像」か「デルボオの女」のように一点を凝視し続けている。

 

彼女は力を抜いた。敗北を認めた。ゲームセット。

 

死の野犬どもが彼女を取り巻き、彼女に折り重なるようにして噛み付いている。死の神が最期の鉄拳を振り下ろした。『トランスベスティ(服装倒錯者)、愚か者』が息を引き取った。

およそ1年前にも一度、彼女と同じように恐怖をあからさまにした患者がいた。この患者たちが二人共、身体的苦痛に耐えていたわけではないということは注目に値するだろう。彼らは単に死の亡霊と対峙していたのだ。二人共その亡霊を見ていたが、現実とはかけ離れすぎ、私達には関知できない場所にいた。去年出会ったそのもう一人の患者。その時はもう昏睡状態に陥っているとばかり思っていた。友達がその直前に同じ病棟で亡くなったばかりで、遺体を玄関の棺桶に納めるために横を通りすぎた。丁度その瞬間、彼は身体を直立させた。少し瞳孔が開いた眼は大きく見開かれ、筋肉は恐怖で張り詰めていた。その恐怖の表情は、残酷な悪夢を見た人が意識を完全に回復するまでの一瞬に見せる表情に似ている。おそらくそれ以外にはこの世で目にすることのない類のものである。私は彼の緊張が溶けるまで長い間抱いていた。その出来事から間もなく彼は就寝中に亡くなった。

 

レディーボーイの一件以降、私の身体からほどほどの質の「優しさ」が再生されるようになった。

 

酸素

酸素ボンベの貯蔵がなくなり、少なくともあと24時間以上待つのを余儀なくされたときがある。ボンベに命を委ねている患者にとり、その事態は想像のつかない苦痛を与える。それは一部の患者には不運で、緩慢な死を意味する。空気を求めてチェンが病棟から出てきた。そんな力が彼に残されていたとは想像もしなかった。木の根元でしゃがみこみ、風を吸った。頭をのけぞらせ、口を大きく開けている。まるで鉢から飛び出た金魚のように。

 

普通の一日

病棟に入るや否や、ドアの側に2つの棺桶が置かれているのに気がついた。一つには23才の若者が、そしてもう一つは29才の女性が納まっていた。一方、ファラング(西洋人)のボランティア達が「ユー」とよぶ患者は、皆の予想に反してまだ生きていた。

 

ノイ。この若きボランティアはその頃の私のガールフレンドであった。その日身体の調子が思わしくなかった彼女を病院に検査に連れて行った。そこに彼女を置いて、患者のもとに戻った。彼らを診察し、何人かに注射をしたあと、看護婦とカルテについて話し合った。その後、食事に向かう途中、敷地内でジャーナリストの一団が映画を撮っているのを見かけた。一人のフランス人女性が私に、スーパーマーケットまで送って欲しいと言った。時間を決め、それから私は昼寝をした。季節外れの暑さのためだ。カナダ人ボランティアに起こされて目を覚ました。彼女は、ユーが最後の時を迎えているが、酷い痛みに苦しんでいるので、スーパーマーケットに行く前に追加で鎮痛剤を打ってあげて欲しいと言った。言われるままに患者の様子を見に行った。すると、彼の隣のベッドの患者が一人っきりで最期を迎えようとしていた。私は彼に付き添うことに決め、彼の手を取り、二言三言話しかけたが、恐らく彼の耳には届いていなかったであろう。そのあと彼の額を熱湯で絞った布で拭いた。15分後、彼は息を引き取った。いつもの手順で遺体の処理をし、彼の身体の穴すべてに綿を詰め込んだ。一人のe奴隷fの手を借りて、いつも遺体を棺桶に入れる出口まで彼を抱きかかえて運んだが、棺桶のストックが無いのに気がついた。e奴隷fは新たに棺桶を運び込んでくるように手配した。その間、遺体は彼のベッドに戻った。その両横では死期の近い二人の患者が横たわっていた。ベッドの間隔は非常に狭いので、2人が手をのばせば楽に遺体に届いたであろう。2人は遺体を無表情で観察していた。

 

そのあと行ったスーパーマーケットで、フランス人女性にこう言った。「ほんの30分前には遺体を棺桶に運んでいたのに、今はスーパーの籠を押しているなんてなんだか不思議な気持ちだよ」。そして何事も無かったかのように、「どのビールを買うか」、と話を続けた。

 

その日の夕方は、寺の私にあてがわれた部屋で、一人で食事をした。時間は5時30分。太陽が、部屋のテーブルに火葬場の煙突の影を落とす時間。まだ体力のあるHIV感染者ベンが外から、「食事は終わった?」と聞いた。このフレーズはタイの挨拶の一つだ。そしてマッサージの申し出をしてくれた。私は勿論ありがたく受けた。しかしマッサージ中、何回もベンのさまよう手をはらい、もとの場所にもどさなければならなかった。すると、彼は単刀直入な提案をした。「私を愛撫し、キスし、それから、、、」。私がすぐに、彼の誘惑を蹴ったのは言うまでもない。疲れていたし、それほどレディーボーイに興味がない。それに戦略的に言っても、医者が将来患者として診る人と肉体関係を持つのは不適切である。

 

マッサージのあと、HIV感染者の僧と患者でまだ階段を登る余力が残っている人々が夜の祈りをするホールへ行った。アジアのラテン語ともいえるパリ語のお経を静かに唱える。それから病棟、e死のホールfへ戻った。ユーはまだ息があった。私は彼女に鎮痛剤を打ち、他の患者も安らかな夜を過ごせるよう色々な薬を注射した。少女と言ってもいいような患者が飲み物を欲しがった。彼女はまだ最後の章には入っていなかった。仕事が終わり、部屋に戻ったのは10時15分であった。ノイがつまらない口実で私のもとに来た。私の誘惑を待ちながら、本を読んでいた。11時15分、やっと眠らせてくれた。これを書いているあいだ、読経の声が聞こえてくる。恐らくユーの隣にいた患者だろう。彼女はこれから1時間ぐらいで荼毘に附される。

 

習慣

アユタヤから来た女性はうつ状態であった。鬱病の患者ほど疲れるものはない。一人の鬱病患者より、10人の癌患者の方が扱いやすい。自分ではそのつもりはなかったが、彼女に示す私の優しさはまやかしだと感じた。彼女はそれを知っていた。そして私を呼ぶのを止めた。彼女は手の施しようがないくらいふさぎ込み、それが原因で死んだ。私の存在は何の役にも立たなかった。私の慈善行為は失敗に終わった。もっと同情的であったならば、と後悔したが、慈悲は決して意思の産物ではない。私は慈悲を自身の中に求めたが、失敗に終わった。ここでは苦痛に苦しむ人と日常的に接する。それは私の心を石化した。慈悲を再び呼び起こすために、トリックを考えた。慢性的症状の患者がいた。彼は私の弟の1人に似ていた。彼を見るたびにその弟の事を考えた。これは効果があった。以前のような熱意が戻ってきた。患者の中に私にとって大事な人々の面影を捜す。もう一つのトリックは、患者を子供だと思うことだ。患者の中には本当に純粋さを持った人がいるので、これは簡単だった。

 

でもそれはトリックに過ぎないので長続きはしない。私はまた、再びまやかしの優しさを見せるだろう。もうすぐ私のe慈悲fは気持ちの込もらないものになり、冷たい論理のみの世界が支配するだろう。この狡猾で回復不能の病に一段と侵されている自分に気がついていた。その種の仕事に関連する心理学者や社会学者の研究を耳にした事がある。彼らの研究は、ナチ収容所やプノンペンの処刑人の分析をテーマにしていた。ホスピスの職員や、救急者の運転手にも類似点を見出せるそれを、「アウシュビッツ症候群」と呼ぶ。それはアルツハイマー症候群にも似て、私の一番の美徳、つまり他人の痛みに敏感という部分をゆっくり蝕んでいく。もうすぐ私のe慈悲fは感情がこもらないものになる。そんなことになったら、何が私の存続の支えになるのであろう。

 

 

憂鬱

 

孤独

私が医学生だった頃、一人の老人に心を揺さぶられていた。高度先進医療を駆使したにも関わらず、彼の症状の診断がつかなかった。しかし彼は死の淵にいた。毎回、彼のもとへ行くと、ほんの2.3秒経つか経たないうちに泣き出した。それから、いつもつい最近亡くなった最愛の妻の話をした。まだ若かった私は彼の側に行くのが怖くなった。年老いた男は数週間生き延びたあと亡くなった、涙が枯れ尽きたかのように、干からび果てて。悲しみがもたらした死。この年老いた男を思い出したのは、ウイチャイのことがあったからだ。

 

ウイチャイが病棟に着いた時は、当然のことながら状態が悪かった。結核と、その他もろもろの日和見感染症がe彼女fの体重を30kgにまで落としていた。しかし最期の時まではまだ時間があるように見えた。ウイチャイはレディーボーイである。どこの出身なのかは誰も知らない。彼女の両親がホスピスにe捨てfに来たが、両親は、「夕方には恋人が来て私たちの手助けをするから」と言い残して帰って行った。その日の夕方、素晴らしくハンサムな、25才のその恋人がホスピスに来た。警戒心があらわであった。彼はまず、まっすぐに恋人の側に行き、しばらくしてから私の許へ来てこう言った。

 

「彼女は重症の結核に罹っているだけで、エイズではない! 彼女の医者が保証してくれた。それなのになぜ彼女はここにいるんだ!」

 

もう夜10時になっていた。ウイチャイの入院を許可した看護婦はいつものように6時に仕事を終えて、帰宅していた。全ての極秘書類は、鍵のかかったロッカーに保管されている。普段、私は必要不可欠の場合以外は入院許可の手続きには関知しない。しかしいずれにしろHIV感染者ではない人がホスピスに入ってくるなどとは想像したこともなかった。私はそのハンサムな青年に説明した。「もし、あなたの友達が入院を許可されたのなら、それは、、、」。彼にどう説明すれば良いのか見当がつかなかった。長い間のパートナーがHIVに感染していると初めて知らされた人の脳裏に、一瞬の間に何が去来するのかは想像に難くない。それはまるで、火薬の粉末の詰まった樽の間を、火のついたろうそくを持って歩くに等しい思いであろう。

 

ウイチャイがHIV感染の事実を無視しようとしたことで、事はさらに面倒になった。彼女は、「両親のみが彼女の感染を知っていて、そのことをホスピスに来るまで隠していた」と主張した。しかし、ボーイフレンドの前ではそれでもまだ、彼女は結核だけに感染していて、薬が効かないだけだと誓った。ハンサムなそのボーイフレンドは狂ったようになりながら去った。最初に両親に捨てられたウイチャイは、愛人にも置き去りにされた。あの若き青年のことを非難する権利は、私にはない。恐らく、彼の無知、愚かさ、そして彼の人生が弄ばれたのであろう。ウイチャイは10日後に亡くなった。死因は悲しみと孤独で、結核ではなかった。

 

告白

私は何もウイチャイがウソをついたと言っているのではない。その件に関しては確証がない。しかしそれに関連する、本当の話がある。タイでは珍しくもない内容だが、西洋人が聞けば唖然とするような話だ。

 

X氏はある女性に恋をし、結婚も考えていた。いやその女性がX氏に恋をしていたのか?まあそれはこの際問題ではない。

 

X氏は彼女を安心させるために、HIVの血液検査をすると約束した。ある日、彼は私の友人が看護婦として勤めるエイズテストセンターに姿を現した。いつもどおりの設問のあと、友人は彼の採血をし、結果を3日後に聞きに来るようにと言った。約束の日、彼は結果を聞きに戻ってきた。私の友人の任務は簡単ではなかった。結果が陽性であったからだ。それでも、彼女は、私もよく知っている持ち前の如才のなさと、プロ意識で彼に告知した。X氏の顔色は、文字通り、青、白、緑、赤と目まぐるしく変わった。そして最後に、予防なしの快楽とその行為の当然の帰結を受け入れた。

 

衝撃的なことがそのあとに続く。5分後、私の友人はX氏が彼の機転、自信そして笑顔を取り戻したのを認めた。彼が部屋を去ると、友人は空気を入れ替えるために窓をあけた。下を見ると、X氏が、これまでは登場していなかった女性を呼んだ。恋人はモーターバイクにまたがり彼を待っていた。友人はX氏がこう叫ぶのを聞いた。「ハニー、グッドニュースだ。結果は陰性だったよ。結婚できるよ!」。

 

友人はそれに対して何ら手出しが出来ない。彼女の知っていることは職業上の秘密事項だ。それと同時に、その類の秘密が守られないような国は、モラル面でHIVとはまた別の次元の問題をひき起こすということも認識していた。

 

耳を疑うような話だが、『タイ人がそのような態度をとるのは珍しくもない』、と信頼できる筋から聞かされた。その数は西洋よりずっと多いとも。この一件も、タイ文化が提供する際限のない自由さの一端であろう。

 

誤解

私の隣人の一人が、ホスピスの患者があのような場所にいるのは、自身の行いの報いだという持論で私を納得させようとした。なんて可哀想な人だろう。彼女は寛大さに欠けるばかりではなく、病棟の殆んど3分の1にも達する人が、ただ単に結婚生活に忠実であったという理由で感染した女性患者たちだという事実に考えが及んでいない。

 

カタレプシー(強硬症)

鬱病患者は、まず普通より長い睡眠時間をとり始める。次にあまり話をしなくなり、最後には全く話をしなくなる。彼らは話せないわけではないが、話さないのだ。完璧に意識があり、時には質問に答えることもある。病気が人との接触願望や自主性を剥ぎ取り、遂には誰かが強制しない限り食事もとらなくなる。それが鬱病だ。

 

普通、2.3日でそのような状態になり、自殺の心配はなくなる。彼らには、そのエネルギーが残っていないからだ。鬱病がさらに進行すると、肉体的な動きを一切停止するというのを本で読んだことがある。苦悩する彫像。それをカタレプシーと呼ぶ。熱、腫瘍、傷、そんなものは一切ない。ただ、精神的苦痛があるのみだ。

 

病棟で4人の患者がカタレプシーで亡くなるのを見た。その内2人は視力を失ったと知った時からカタレプシーが始まった。視力喪失は珍しいケースではない。毎週1-2人が発病する。この症状の患者を前にして、私が出来ることは余りない。3人目はわずか21才であった。カタレプシーはホスピス到着後、数時間の間に彼を襲い始めた。彼は母親が彼を捨てたと言う事実を受け入れられなかったのだ。病棟でも、数年前までは5人に1人の死を家族が看取っていたが、今は10人に1人もいないのが現実だ。

 

4人目は母親であった。彼女は子供に置き去りにされた。3週間後、業を煮やした親戚が初めて姿を見せた。15分間愛想笑いをし、見せかけの涙を流したあと、彼女に署名をさせるための書類を差し出した。それは彼女の財産を死の前に処分するための承諾書であった。用事がすむと彼らはそそくさと去り、二度と戻ってくることはなかった。患者はあまり話をせず、食事もとらなくなりベッドから出なくなった。彼女は胎児の姿勢をとり、赤ん坊がするような反応をした。そして最後には全く動かなくなってしまった。眼はうつろで、彼女の内面の痛みを映し出しているかのようであった。彼女はその痛みで死んだ。

 

技術者

寺の敷地にあるコテージでは、患者があまり孤独感を感じずに数週間から、長い時には数年間暮らすことがある。そして「彼の順番」が来たときは、コテージの住人の大半が病棟に入り、平均数週間で棺桶に入ってそこを出る。普通、葬儀は翌日に執り行われ、最後に、金持ちの中国人が寄付した火葬場で荼毘に附される。

 

時には人生に飽き飽きした患者が「彼の順番」が来る前に、病棟に入って来ることもある。それを引き止める人々のどのような説得にも耳をかさず、希望を通そうとする。いつもは

もしベッドに余裕があり、看護婦が黙認すれば病棟に入れる。そして、細菌をうつされるか、鬱病で死んでいく。

 

このような絶望的なケースにあてはまる一人の患者を思い出す。彼は病棟では稀な、インテリといえる人物であった。すこし痩せすぎている以外はまだ元気だった。病棟に入るのに反対する私の意見を充分に理解しながらも、死んだ方が良いとしつこく要求した。肺の感染症を発病した時、もう一度彼の説得にかかった。「もし死にたいのなら、それはそれで良い。しかし私は君が窒息死しないよう出来るだけ努力をしたいのだ」。窒息死は非常な苦しみを伴う。彼は、私の言葉をすぐに理解して、私の処方した抗生物質を飲むことを了承した。その後の日々の大半は眠って過ごした。そして2週間後、痛みを訴えることなく衰弱で死んだ。

 

 

マイケル

ある時期、ことさらよそよそしい態度をとるマイケルと呼ばれる患者がいた。英語が上手なので、西洋人ボランティアから人気があった。マイケルは26才、もう2ヶ月病棟にいた。彼と話してみて分かったのは、思いやりのある男だということだった。以前はさぞかしハンサムであったろうことは、1cmの厚さのe殻fで覆われた皮膚にも関わらず想像がついた。売春をしていたが、過去を悔いていないということは私たちに語る言葉の端々から伺えた。そんな昔話を眼を輝かせて話すマイケルは、他人の目には奇妙に映るが、彼にとっては楽しい思い出なのだろう。こんな悲劇的な状況に身を置きながら、彼のように落ちついている患者を初めて見た。あえて言ってしまうと、彼には聖人が持つような安らかな喜びがあるのを見て取った。マイケルも予想していなかったのは、彼の病気は良性で治療可能であることだった。彼の固かった皮膚が4日もたたずに、栗の皮を剥くように剥がれ落ちた。「脱皮」した彼は、病棟にいる必要がなくなり、昔の美貌を取り戻した。脳はまだ損なわれていないので、少し時間をかけて順応すれば、また昔の、eいたずらfに戻ることも可能かもしれない

 

彼がまだ殻に覆われていた時、マイケル称するところの、e愛の傷fについていかにも楽しげに語ってくれた。彼が売春を始めたのは弱冠16才の時だ。人生は楽しかった。彼はベッドのパートナーには同胞ではなく西洋人ばかりを選んでいた。そんなとき、彼が婉曲的表現で言うところの、e強い愛fに出会った。私が観察するところでは、非常にアクティブな同性愛者は、次第にあの不思議なサドマゾ的関係に入っていくようだ。マイケルの傷はその世界から持ち帰ったものだ。彼は今まで、何回か美貌を競うコンテストに入賞し、それが自慢であった。しかし、昔の美貌と健康を取り戻しても、次に何をするかが彼には分からなかった。昔の栄光には及ばないにしても、社会復帰をすることは充分可能であると考えられた。彼は死にたいとは一言も言わなかった。誰に尋ねられても、彼に人生の新たなチャンスを与えた私の役割を褒めるだけであった。私の名誉になると分かれば特に意識してそうしていた。実のところ、彼は新しい人生には何も思い入れがなかった、出来れば私にそれを返したかったであろう。

 

ある日、マイケルは2人の西洋人ボランティアに、丁度10日後に死ぬと宣言した。彼らからその話を聞いた私は心配になった。私にはそんなことを一言も言っていなかったからだ。私はマイケルの許に行き、真偽のほどを質した。彼は遠い昔に正確な死亡日が予言されたから、と笑いながらあやふやに言った。マイケルにはいわゆる典型的な鬱病の症状は出ていなかった。それどころが、心の平安を保っているように見えた。英語とタイ語で語った話の内容は、完璧に正常で健康な精神状態を示唆していた。

 

もし私が真実を知ったら、彼の意図を阻むことを恐れたのだということは想像に難くない。彼は10日後ではなく7日後に死んだ。私が呼ばれた時は、すでに最後の苦痛に耐えている段階であった。何んらの感染症にも罹っていないし、神経症的な問題もなかった。問題といえば、血行障害と軽い呼吸困難程度であった。私は酸素吸入と高用量のステロイド剤を投与したが20分後に息をひきとった。当時、私には彼の死因が理解できなかった。しばらくして、彼ほど顕著ではないが同じような症状の患者を診たとき、やっと分かった。マイケルは自殺をしたのだ。この患者は、ひどい頭痛に悩まされ、愚かなことにパラセタモール(鎮痛剤)を一度に14錠も飲んだ。パラセタモールは病棟で唯一、簡単に手に入る薬である。誰でも数日中に自殺に必要な量ぐらいは手に入る。もしそれが、分かっていたら対応する解毒剤があるので、彼をe救えてfいたであろう。今から思うと、間に合わなくて良かった。もしe救えてfいたら、不愉快な倫理的問題になっていたであろう。マイケルは多分、私をそんな選択で煩わしたくなかったのだ。e哲学者fマイケルは彼独特の繊細で精妙な配慮で、私に死ぬのを手伝ってくれとは言わなかった。あるいは、もっと率直に言うと、マイケルは彼のプロジェクトに障害物が欲しくなかったのだ。

 

もし、あの技術者が自分の人生を『実りの無い失敗作』と見て長引かせたくなかったとしたら、彼、マイケルは終わってしまった素晴らしい祭りのような自分の人生に早く終止符を打ちたかったのであろう。

 

運命

私は押し寄せる波のような嫌悪感を人生、いや患者のではなく、私自身の人生に感じていた。仕事の内容がそうさせたのではない。私を心底うんざりさせたのは、私の生まれ持った怠惰な性格がこの仕事には向かないということだった。私にとり仕事は相対的なことで、幸福の尺度にさえならない。この嫌悪感が私を襲ったが最後、時には何日間も物事に集中できなくなる。

 

例えば、ある朝、1人の少女の異常性膣滞下で婦人科系の検査をしていたとする。終わって指を引き抜いて見ると、ゴム手袋の先に、大便がついている。それでもう一度やり直さなければならないといった具合だ。

 

こんな時には言葉もまた大きな障害になる。何も理解できないし、私自身を理解してもらうことも出来ないと思ってしまう。

 

当時、仕事をしていたのは私の運命と感じていたからで、自分の幸福感よりは運命に従順に従う方を優先していた。私はホスピスでの仕事に幸福感を感じてはいなかった。幸せでなどいれる筈がない。幸せでは無かったが、私が呼ばれた場所と思っていた。この想いが私をそこに引き止めていた。それで充分だと思っていた。

子供を可愛がる父親は、私より幸せだ。そんなことは分かりきっている。しかしその種の幸福感は私にとりあまり大きな意味を持っていない。そんな幸せを与えられるようには生きていないし、もしそういう状況になっても心の平安は得られない。私にとり心の平安が、幸福感や喜びより大きなウェートを占める。しかし今、私にはその心の平安さえない。

 

 

安楽死

 

拷問

一人の患者の病床で、彼女と私は穏やかな時間を共有していた。私が彼女の目を見つめていたその時、「拷問」と彼女はつぶやいた。そして、つかの間の沈黙のあと瞼を開け、続けた。「どうして? どうして?」。

 

勇気ある父親

患者の父親が、「息子に無駄な延命治療は無用だ」と私に言った。家族からのこの種の要請は珍しい。その後、息子は重症の消化器系出血を起こしたので、口径のヘモスタティック剤を処方した。父親は自分で息子の口元にその薬を持っていき、薬を飲むかどうかは息子の自由だと言った。「もし、早く死にたければ飲まなくてもいいよ。でも、一度試して見るかい?」。彼のしたことは美しく、核心を突いた本当の意味の強さである。息子は、父親の言葉の意味するところを完璧に理解した。そして、薬を飲むほうを選択した。にもかかわらず、数時間後には容態が悪化し、帰らぬ人となった。重症のケースにヘモスタティク剤は気休めにしかならない。

 

黒仏陀

彼の胸には黒い仏陀の刺青があったので、私たちは「黒仏陀」とニックネームをつけた。黒仏陀は寝たきりになった。何度洗っても、彼の身体からは悪臭がした。黒仏陀は殆んど身動きしなかったので、ハエが始終たかっていた。しかし、黒仏陀は完璧に正気であった。彼は人生に飽き飽きしていた。彼は何度も何度も、執念深く、私に「この悲惨な人生を終わらせてくれ」と哀願した。私は答えた。「もしそうして欲しいのなら、普通の鎮痛剤ではなく、強力な催眠剤を処方するけど」。彼は鎮痛剤を飲み続けた。

 

黒仏陀は英語が話せるという点では、珍しい患者であった。ボランティアのクリスティンが、彼が死にたがっていると言ってきた。彼女は黒仏陀に興味があった。たぶん愛していたというべきかも知れない。意思の疎通が出来るという他にそのころは患者が少なかった、ということも原因であったかもしれない。その朝、彼は周りの患者を憚ったのか、英語で「死なせてくれ」と再び私に懇願した。その後数日間、どう対処すればよいか思案にあぐねていた。彼を自然死させるのが一番簡単で完璧に合法的だ。厳密に言うと、それは私の権利でもある。しかし、何もせずに死なせるは、私の心のどこかにこだわりを残すであろう。彼を「殺す」のは私の義務、リスク、特権。そして私の彼に対する兄弟愛の表現手段の一つであろう。私は臆病者で、気が小さい。そんな自分が嫌いだ。

 

脱水症状

『ブラック・ブラック』とあだ名をつけられた男は、誰よりも色が黒かった。病棟に入ってきた時はすでに意識不明で、脱水症状で亡くなった。脳に重大な損傷があるのでは、と思ったが定かではない。もうどのような手当ても無意味であろう。彼の渇きを癒す水、それだけで彼が逝くのを見守った。何才なんだろう? 23才ぐらい? 今はそれを知るすべもない。

 

ソムドゥン

ソムドゥンは死期が近かった。死の影は窒息という形でその存在を誇示した。もう打つ手はあまりなかった。しかし彼は生きたいと言い、治療をして欲しがった。彼に一連の抗生物質療法を始めようとしたが、私の上司的立場の看護婦が、酷だから辞めるように勧めた。彼女は、私がこの絶望的な患者にこだわり過ぎると、何日間も遠回しに注意していた。彼女は実りのない状況を把握し、ソムドゥンの運命に干渉しない方を選んだのだ。看護婦は「死」に関しては、私の大先輩だ。

 

私がソムドゥンに尽くしていたのは確かだ。私は彼に、執着に似た特別なこだわりを持っていた。30才という年齢に関わらず、彼には子供のような可愛さと優しさがあった。あまり多くを話したがらなかったが、控え目に語ってくれた彼の今までの人生に、私は気持ちを揺り動かされていた。いわゆる放蕩者の人生とは全く違う、悲劇的人生。無知というよりは、不運が彼を病棟に導いた。彼が苦痛に苦しむのを見るのはつらかったが、看護婦の厳しい言葉に従い、抗生物質を止め対症療法を始めた。薬の量を正確に計算せずに、多分、多過ぎるであろう量の鎮痛剤を処方した。

 

ソムドゥンは死ななかった。彼は我慢の限界を超えるような長くて、残酷な苦痛を耐えた。2日後、彼はまだ生きていた。それで私は抗生物質療法を再開する決心をした。しばらくしてソムドゥンが少し回復した時、なぜ1日以上意識がなかったのかと尋ねた。居心地の悪い思いを感じながらも、私は彼に本当の事を言う勇気がなかった。

 

私は神に審判を請うた。神は答えた。「相手の応諾なしにあえて命を奪うのが義務の時もあるだろうが、絶対に権利ではない」。私には権利がなかった。そして義務を行使するにも、私の精神が正しい選択を出来る状態ではなかった。

苦痛にのた打ち回ったり、死期の近い患者を知覚、認識したとする。例えその観察が鋭いものであっても、患者、特に死を望んでいない患者が苦しみながら何を考えているか、という領域には立ち入れない。多分、運命や神々と和解できるとでも考えているのか?それは私にも謎だ。

 

苦痛は私達の本質の一部であり、意思とは別物だ。望むと望まざるとに関わらず、魂の鍛錬には重要なものだ。一方、死に行く患者にとっての苦痛は、彼を見送る人のそれとは異質のものだ。

 

次の朝、ソムドゥンはまだ生きていた。前日より少し回復し、話を出来るまでになった。その時に彼は、なぜ意識を失ったのかと聞いたのだ。彼は少し眠らせてくれと言ったが、死なせてくれとは云わなかった。ただ単に静かに眠れるようにしてくれと言った。

 

その夜から翌朝まで、私はホスピスから離れていた。ホスピスに戻ったのは翌日の午後3時を過ぎていた。ソムドゥンは死んでいた。このページを日記に書き始めた頃に、彼は死んだ。ソムドゥンは死ぬ前に何度も私を呼んでいたと聞かされた。私は遠くにいた、彼に近寄れないところに。

 

ユー

彼のあだ名は「ユー」。いつも私達ボランティアをこう呼ぶからだ。唯一、彼が知っている英語の単語だ。ユーは死にたくなかった。差し迫った死の影に怯えていた。彼は戦い続けた。起き上がりたい時は、私たちを呼んだ。彼の足の筋肉は、すでに彼を縛り自由を奪うロープのようなものでしかなかった。なにかと言うと薬を欲しがった。死ぬ前に家に帰り、母親と娘に会いたいと言った。

 

西洋人ボランティア3人が、彼の面倒を親身になってみていた。彼のe強さfが私達を揺り動かす。早く楽にしてあげたいと思ったが、運命が私たちとは対極に居座り続けた。

 

しかし、もう限界だ。私は、彼の苦痛を見かねて、危険を犯して鎮痛剤を増量することに決めた。冷静な気持ちで熟考を重ねた論理的な決定である。

 

「やり過ぎだ。彼はそれを望んでいない。それで充分じゃないか」

 

「黙れ、良心!君は何も分かっていない。今の状況は、君のまだ言葉も話せないような子供か飼い猫が、話せると想定した場合と一緒だ。彼らは知的にも心理的にも完成していない。彼らは、最善の選択を下せるほどの理性を持ち合わせていないのだ。それを君は良く知っているではないか」

 

私が自問自答しているこの課題、普通の感性で考えることが出来る人間なら誰でも、正解が無いというのが分かっているであろう。選択をしてはみても曖昧で結論とは言えず、いずれにしろ心に傷を残す。何も決めないというのも、実は選択をしたことに他ならない。それゆえに、心に傷を負うのは避けられない。それが運命の罠だ。

 

この課題は1人の人間の運命という見地だけで考えるのは不充分だが、今回のケースは運命とも違い、他人の言葉をいかに分析するか、という範疇に入ると思う。彼はただ、良くなりたいと言った。しかし他の言い方も可能か?他人が彼の言葉を、自己流に訳す権利はあるのか?彼が別の社会的レベル、例えばもっと知的な層、あるいは心理的に成熟した層に属していたとして、違った言葉で表現することを予測できるか? 他人の苦痛を取り除くために、危険を冒すのが倫理的に正しいかどうかを知るのは、実際は形而上学的な問題ではなく、意味論の範疇に入る。良心は何の手引きにもならないが、祈りはどうだろうか、効果があるのだろうか?

 

ついに私は1回分の注射としては多過ぎる量の鎮痛剤の注射をした。彼はもう意識が無かったが、1人にならないように手配した。ボランティアたちは何も知らないふりをした。少なくとも私のしたことを無視するふりをした。私も自分がたった今したことに彼らを巻き込みたくなかった。彼らの言うことは予測がついていた。このような行為を評するのに、感情に支配された思考方法から出てくる言葉はたった一つe殺すfだ。自分が手を下すわけではないので、彼らにとってその言葉の選択はしごく簡単なことだ。

 

注射を終えたのはたそがれ時であった。すぐに寺を出て、いつものマンゴーの木の下で

夜の静寂に包まれながら瞑想をした。山は真っ赤に染まっていた。雑草や爬虫類、昆虫を燃やすために、農民が火を放つ季節であった。

 

幸いにも、いや不幸にもと言うべきか、私はユーを殺さなかった。彼はその夜死ななかった。何も気がついていないようで質問もしなかった。彼は苦しみ続け、2日後に死んだ。

 

テレビ討論

パリ、ニューヨークあるいはシドニーで、ソファーに身を沈めて見ているインテリ層に向けたテレビ討論の数々について、また考えさせられた。彼らは十年一日の如く、裁判やローマ法皇庁の勅令、法的緩和という論点を問題にしている。専門家は緩和療法、尊厳死、催眠剤、患者の選択、宗教等々のトピックをもったいぶって話題にする。もうたくさんだ。私達は馬鹿者扱いだ。そんなことでは重要な点には、全然触れていない。唯一論理的な疑問、そしてその答えが実践的なのは、慈悲の本質を問うことだ。その他は脳のマスターベーションに過ぎない。誰もそれを分かっていない。

 

失敗や罪という問題ではない。自分自身の慈悲を恐れず冷静に分析できる医師は、安楽死の是非や、依頼を受け承諾したのかとか、合法か違法かなどのことに頓着しない。彼が優しければ、彼の任務はおのずと理解できる。優しさの表現手段についての明晰さ、それが核心となる問題だ。倫理は患者の健康状態ではなく、e殺すf側の自省を求める。これは究極の矛盾だ。

 

賭け、決心、催眠剤、能動的あるいは受動的安楽死、これらはすべて理性で押し付けられたものではなく、優しさから派生した受動的義務である。e優しさf以外にどんな論理的手段で、死期の近い患者の発言を鬱病(神経症)からなのか、明晰さ(知的公正さ)からなのかを区別できるだろう。e優しさf以外に何が制約の中に自由を感じ取ったり、不条理の中にも価値が存在したりすることを気付かせてくれるだろう。または、話した事と、言葉にはならない言葉を区別できるのだろう。もし、言葉にならない言葉があり、制約と価値が証明されるという論理が成立するとして、それを理解するすべは「優しさ」以外にはない。

 

「落ち着いて。死期の近い人が、あなたが愛する人だと思って行動しなさい。あなたの息子、母親、友達、兄弟なのだと」。

 

「良心、またあなたは間違った。そんな風に考えてはいけない。もしそう考えるのなら、この、親の愛、子としての情愛、兄弟愛、夫婦愛、友情、兄弟愛は、自分の愛し方という要素を完全に取り払った愛でなければならない。自分自身を完全に放棄しなさい。他人の神秘の全てを感じ取るために。『愛』ではなく『優しさ』、『愛(love)』ではなく、『神の愛(agape)』」だ。

 

私は再び、私の慈悲の質について考えさせられた。もし、世間の道徳主義者、神父、法学者が私の質問に答えてくれるのなら、こんなにも疲れはしないだろう。私は疲れきっている。

 

 

 

 

 

 

 

3

 

慈善の波

 

薪の束

仏教に関心のある何人かの西洋人ジャーナリストが、ホスピスにいた。その時は、たまたま患者が相次いで息を引き取り、9遺体が霊安室に保管されていた。「ヘカトン(古代ギリシャで行われた、神聖な生贄の儀式についての本)」をもう一度読み返してみる良い機会だとさえ思えた。9遺体は、古代の儀式のように、積み上げた薪の上に並べられた。ジャーナリスト達は、肉体が少しずつ炎にのまれるのを目撃した。その夜、焼かれた肉体の臭いが病棟は勿論のこと、寺の敷地全体を覆っていた。その夜、なぜあんな考えが浮かんだのだろうか? その臭いは恐らく、中世のヨーロッパの街や、良心を燃やした魔女の処刑と同じ臭いであろうと思った。

 

私達がここで出会うジャーナリスト達には、たちの悪い輩が多い。自己紹介やプロジェクトの説明もなしにホスピスに姿を現し、カメラを武器に一番醜悪で、屈辱的または、悲惨な被写体に焦点をあてる。患者に全く配慮をせず、一番ショッキングなショットを求めて右往左往する。自信過剰でうぬぼれやの彼らは、私たちが「もっと配慮を持って行動を」とお願いしても、考えられないような見下し方で無視する。ジャーナリストたちは、住職や事務所からお墨付きを貰っているのを盾にしているのだ。彼らのもたらす宣伝効果で寄付が集まるからだ。

 

しかし皆が皆、このような人ばかりではない。ジャーナリストの中にも人当たりが良くて上品そして控えめ、なおかつ礼儀正しい人もいる。そんな人々は最高の作品を作る。有名なジェームス・ナハトウェイが良い例だ。彼は病棟に1週間通った。彼の親切さに魅せられた一人の患者は、「もう一度戻ってくるか」と聞き、別の患者は、「彼は結婚しているか」と尋ねた。

 

死後の部屋

病棟では信じられないような遺体を見る。やせ細って、アウシュビッツの住人さえ怯えさせるようなのもあれば、骸骨のようなトランスベスティ(服装倒錯者)が豊かなシリコンの胸をひけびらかせているのもある。何千もの訪問者が教育的目的、会議あるいは寄付のために寺に立ち寄り、病棟を通り過ぎていく。それを見た抜け目のないマーケティングの専門家が、小さな「死の博物館」がもっと寄付を集める効果があるかも知れないと考えた。

 

 およそ15体の一糸まとわぬホルマリン漬けの遺体が、ガラスケースに収まって、怖いものみたさの観客を待っている。最初は状態が酷くて珍しい遺体を展示するつもりだったが、その計画は失敗に終わった。この裸のコレクションにすすんで同意するような常軌を逸した患者はそれほどいなかったからだ。そのため、展示された遺体は博物館が出来る前に献体に合意した者に限られた。つまり彼ら遺体の持ち主は、将来どのような必然的結果になるのか知らなかったのだ。誰も裸体のことは言わなかった。子供の遺体も、時々つけ加わる。子供はもちろん孤児で、公式の保護者、すなわちホスピスの幹部の意向には逆らえない。

病棟にイエズス会士のような頭をした患者がいた。そう表現すれば想像がつくと思う。 乾いた身体、鉄のような固い表情。しかし彼の無慈悲さは他人にではなく、自分自身にのみ向けられていることを全身で漂わせていた。彼は厳格さの化身であった。その厳格さの質は、道徳の先生タイプの人が持つそれに共通していた。過去の聖職者にありがちな欠点もないし、パリサイ人のようなところもなかった。

 

私の親愛なる、イエズス会士は一言の文句も言わず、乾ききって天に還る日を待っていた。彼は罪の償いでもしているかのように何も要求しなかった。彼の周りの患者は、「現在ここにいるのは技術的失敗のため」、と考えていたが、彼は道徳的失敗の故に今の自分があると確信していた。

 

マネージャーが病棟に来て、彼のファイルの上に警告文を糊付けした。「注意!この患者を荼毘にふさないよう」。そうなのだ、このマラボウ鳥は、死後の部屋から最後の教訓をたれたかったのだ。彼は自分の失敗や罪をさらけ出すことによって、若い世代が彼の轍を踏まないよう、人間として真の徳の道を歩むよう身をもって範を垂れようとしていた。

 

そして彼は死んだ。しかし予期に反して、他の患者と同様に荼毘に附された。それは彼の死が早すぎたためだ。身体は極端にやせ細ってはいたが、斑点が少な過ぎ、刺青やシリコンの胸も無かった。彼の身体は注目を集めるには不充分で、防腐加工をする値打ちもなかった。

 

ホスピスでの強姦

大変な騒動だ! ホスピス中がその噂でもちきりだ。ありえない不祥事だが、性的暴行がホスピスで起こったのだ。意識朦朧あるいは、熟睡中の女性患者の隙を突いて誰か不届き者が及んだ犯行だ。変質者は太った女性が好みでなかったのか、病棟のあわれな女性患者数人の平たい胸を愛撫した。警察も呼ばれた。2日後加害者が逮捕され自白させられた。彼は、生存している全ての被害者に3,000バーツ(約50米ドル)ずつ払うことを条件に、数時間後に釈放された。

 

翌日、皆が大いに喜んだ。特に被害者女性は、死の前に思いがけない贅沢が出来る期待感でにこやかな笑顔を見せていた。

 

私の国では男性器が理性を超えた場合、警察の取調べ、メディアの執拗な攻撃を受ける裁判、5つの民間婦人団体、そして過剰反応の心理学者でなる騒々しい一団の介入がある。その結果、被害者が公に自身の性的問題を取り上げられることにより、2度目の侮辱を受けるのは火を見るより明らかである。

あえて言うならば、タイは西洋に比べ性に縛られていない。その上、この国はまだ生き残るためのポルノグラフィーを必要としていない。しかしアメリカ式生き方がタイ社会にその影響を広い範囲で及ぼしているので、性に関する社会現象も変化を余儀なくされている。アメリカはタイより精神的に健康とでも信じ込んでいるためなのだろうか?

 

豆乳

メーが初めて病棟に運び込まれた時、彼女は5kgの腱と皮膚そして骨に過ぎなかった。彼女はその時すでに1才3ヶ月であった。私達は皆、長くてあと2週間の命だろうと思った。血便を出し、乳をすう力さえ無かった。しなびた皮膚の様子から腎臓と肝臓の内部は乾いた筒のようなものであろうと思えた。彼女のことを書こうと思っていたので、写真をたくさん撮った。メーに2度目の人生、つまり「本質的な命」を与えようと思っていたからだ。彼女を死ぬまで看取って、そのあとは集めた資料を使ってインターネットで世界中のサイトに紹介しようと思っていた。

 

メーは死を拒否し、何ヶ月も生き延びた。そのうち私は彼女の症状に疑問を抱き始めた。CD4カウントが200以下の患者が必ず発症する口中のカビ、カンジダが無い。検査室がないのでハッキリしないが、彼女は例外なのかもしれないと思った。

 

ある職員が何気なく、「メーは豆乳が大好きだ」と言った。そこで私は「メーはエイズの症状で死にかけているのではなく、ミルクの吸収不良ではないか」とひらめいた。私は普通のミルクを禁止した。すると奇跡が起こった。体重が目に見えて増え出したのだ。

 

次にしなければいけないことはメーを病棟から出すことだ。体力がついてはきたが、細菌の巣窟のような病棟に身を置いていては、脆弱な免疫系が少しずつ侵される。つい数週間前、目立った症状のない丸々と太った男の赤ん坊を失くしたばかりだった。面倒を見る人間がいないため2時間ほど病棟で預かったばかりに死なせてしまった。彼を見て、すぐに外に連れて行くように指示したが、遅すぎた。赤ん坊は数時間後、急性肺感染症で亡くなった。病棟を出たものの、誰も彼の重篤な症状に気付かず私を呼ばなかった。

 

メーをホスピスから出す、それは辛い任務であるのは分かっていた。職員や患者、だれもが彼女を可愛がっていたからだ。見学者もメーに魅せられた。ある中国人の見学者は小さくて可愛いカラフルな手彫りの棺桶を送ってきた、その棺桶は病棟の玄関で数週間待機していた。ガラスの棺桶も準備が出来ていた。

 

周りの人々に尋ね周り、最後にHIV感染児問題に取り組んでいる裕福なドイツ人と出会った。そのドイツ人がメーを引きとってくれることに決まり、彼女は生きて寺を出た。そこで彼女は、飛びぬけて高価な抗HIV薬を服用できるので、この人生の暗いe穴fから、永久に這い出すことが出来るであろう。その日、たまたま居合わせたある西洋人に「メーは助かったが、これからも必ずもっと子供の患者が出る」と言った。子供たちは神の思し召しのままに自身の身体を捧げなければいけない。神、その存在を私は日々嫌いになっている。

 

次の日、病棟に別の赤ん坊が入ってきた。美しい棺桶が無駄ではなくなるかも知れない。

 

一遺体につき、引き出し一つ

患者が荼毘に附されたあと、遺骨が残る。それを麻の袋に入れ、誰の物かわかるよう、ラベルをつける。それから? 大半の家族がこの屈辱的なeお土産fを引きとるのを拒むので、問題はそれをどうしたら良いかということだ。家族は幽霊の仕返しを恐れているのかもしれない。苦肉の策として仏像の回りに積み上げることになった。

 

それから数年後、仏像が遺骨の袋に埋もれてしまった。心優しい篤志家が数え切れないほどの小さな引き出しのついた、大きくて美しい収納棚を寄付してくれた。引き出しの一つ一つに遺骨の袋を入れれば片付くし、仏像や死者の尊厳も守れるだろう、との意図だったろうが、誤算があった。まだ形の残る大腿骨や頚骨には、引き出しが小さすぎる。もう一度火葬炉にもどし、ガスを放つというのは問題外だ。ガスは高くつく。

 

たった一つ残された方法は、遺骨を臼で挽くことだ。これなら簡単に取り扱いが出来る。患者からなるボランティアが、先立った病友の骨を薬局にあるような臼に次から次へと入れて挽くのを手伝わされた。そのボランティアが、挽いている骨の持ち主と面識があったという現象は当然ありえた。知人との思い出をたぐりながら、それでも笑って普段はソムタム(パパイヤサラダ)の調理に使う棍棒を何度も振り下ろして、遺骨を粉砕する作業を続ける。この方法で手こずらせた死人はやっと個々の引き出しにおさまる。収納棚が一杯になると、ボランティアは自身の死を迎え、仏像の回りの山が再び高くなっていく。新たな解決策募集中。

 

天使でもなく、ペテン師でもない

ホスピスには狂気の嵐が吹き荒れている。当然のことだ。毎日、他人の死を看取り続けると、数年のうちに脳が軌道を外していく。人によっては数ヶ月で充分だ、特に若者には。

 

すべてが超現実的になる。毎月、何千人という観光客兼篤志家が死期の近い患者のベッドの間を通り過ぎる。もっと死者を! もっと恐ろしい情景を! もっと感動を! 患者の中には、これら観光客の前で唄を歌う者もいれば、ちいさなプラスチック製の骸骨のついたキーホルダーを売っている者もいる。寺の事務所の壁は、本物の骸骨で飾られている。寺は、遺灰で仏像を作ろうとさえ考えついた。まだ歩ける患者は、庭でその仏像を拝むことが出来る。

 

死体博物館に、まだ歩ける女性患者の夫の裸の遺体を陳列する大胆さを持ち合わせた人間がいた。数週間後、彼女は4階から飛び降り下半身不随になった。

 

機械はフル稼働し、金がなだれのように押し寄せる。未来は開けている。「近い将来1日あたり、およそ10人の患者の死が予測されるので、もっと大きな火葬場を作って工場が生産高とペースをあわせられるようにする時が来た」、と寺はジャーナリスト達に説明した。それを受けて、ある篤志家が既存の2つの火葬炉のすぐそばに6つの炉を備えた火葬場を寄付した。全部で8つの煙突。この情景はヨーロッパ人を震え上がらせる。まだ記憶に生々しい過去の出来事を思い出すからだ。火葬炉、仏像。髪の毛までもうすぐだ。靴は? そして石鹸?

 

ホスピスが盛況の中、新しい病棟が完成した。しかし、ベッドやベッドサイドテーブルのサイズは前もって計測されていなかったのか、患者は妙なスペースに、無理やり押し込められていた。もし患者が嘔吐した場合、その嘔吐物を取り除くのは横の患者のベッド3台を動かしてからでないと出来ない。必然的な結果として、嘔吐物は長い間その場に据え置かれることになる。カルカッタのマザーテレサの家同様、ハエがそれを充分に楽しんだ後、他の患者の唇や目にたかる。膿もばい菌媒介の良き担い手となる。もし職員の1人が血液や膿に触れた場合、2つのドアのハンドルに細菌をつけたあとでないと洗面台までたどり着けない。洗面台のコックはそのような状況を想定して作られていないので、手を洗う前にそれも細菌で汚染される。トイレに続く階段は突飛な作りで、転ぶ患者が続出する。患者の中にはエイズではなく、脳内出血で亡くなった人もいる。しかしこれも死という意味ではさほどの違いがないのかもしれないが。

 

雨期の洪水のとき、一階から避難しなければならなかったことがある。4階に患者を運び込まなければならないのだが、エレベーターがない。仕事をe押し付けられたf建設業者はその建物の使用目的を理解できなかったのか? もしかしたら、設計士は勾配に固執していたのかもしれない。病棟内の通路の勾配が急すぎて、洗濯物や食事のワゴン車、車椅子やストレッチャー、老人、足元のおぼつかない患者には不向きだ。他にも欠陥は色々ある。

 

今のホスピスの現状では満足な仕事をするなど不可能だ。患者をもっと分散して収容したり、換気システム、水の供給そして適切な水処理ができれば、仕事がやりやすくなるし、安全性も確保できる。私にとっては、アフリカやカンボジアでのホスピス運営のほうが、仕事がやりやすい。まがい物の近代性、しかも外見ばかりに重点を置いた近代性の方がたちが悪い。

 

2001年ごろからスタッフの間で特に顕著になってきた情緒障害に対抗するためなのか、一部のe奴隷fが犬に優しさの矛先を向け出した。スタッフルームで彼女たちが犬の喉に食べものを詰め込み、優しく愛撫している間も看護婦詰め所から窓一つ隔てたところでは、もうコップを自分で持ち上げる力さえない患者が乾きで死んでいく。勤務時間中におしゃべりに興じたり、マンゴーにかじりついたりしている間もうめき声は続き、長い間そのままにされた紙おむつの排泄物の中で、疥癬が悪化していく。ある日、全ての外交儀礼を無視して私は怒った。怠け者の職員が、今にも息を引きとろうかという患者の横に棺桶を置いたからだ。あとでするのを避けようという魂胆だ。彼女はまだ生きていた。この先そんなに長くはないかもしれないが。

 

西洋人ボランティアの大半が、職員の態度の悪さを見かねてある時点で私に文句を言いに来る。私がそれに気がついていないとでも思っているのだろうか?多分彼らは、私が怒るとでも思っているのだろう。数週間後にはこの親切な西洋人ボランティアたちはそれぞれの国に帰り、有給休暇を使った冒険的体験を癒し、彼らの勇気と寛大さを周りの人々から賛美されるのだ。

 

職員はe親切なボランティアfではない。あれから2年たった今も、中にはまだ20才にもならない少女たちも含めた彼女たちe奴隷fは、まだこの呪われた病棟に居続けている。彼女たちを取り巻く人々は行為を賛美するどころか怖がっている。中には結婚できない者もいるかもしれない。エイズ患者の面倒を見ていることで、病気を恐れない相手と出会う時間もチャンスもないからだ。

 

私がいつも驚いているのは、彼女たち全員が残酷無比なこの状況の罠にはまっていないことだ。何人かは申し分のない性格をしている。そして全員が既存の心理分析の結果を覆してしまうだろう。親が実の娘に感じるのと同じように、私は彼女たちを誇りに思っている。しかし、彼女たちヒロインは雇用者、観光客そしてなだれ込むジャーナリストの視野に入らない。ホスピスの職員の質の良否は、部屋の片隅の嘔吐物のようなものだ。普段は目に付かないが実際に一緒に仕事をして初めて正当な評価が出来る。

 

e奴隷fたちの将来の見通しは暗い。彼女たちの冷酷さを訴えに来るボランティアにはいつも「私も彼女たちの態度には気がついているが、命令を下したり、罰したりは出来ない」、と言う。なぜなら私も彼らと同じ西洋からのボランティアで、それ以外の何者でもないからだ。

 

職員と患者の間には、厚い壁がある。その壁はかつてアウシュビッツの兵隊とユダヤ人を隔てた壁と同じものかもしれない。兵隊達はロシア前線に行かないかわりにその任務についていた。e奴隷fたちはホスピスでの仕事を金のためにしている。アウシュビッツの兵隊達と同様、彼女たちが分かっていないのは、ここでの仕事は人間として一番大事な感受性、つまり他人の苦しみを感知する感性を失わせるということだ。もし命令されたら拷問さえするだろうか? 中にはいるだろう。患者が小水をして仕事が増えないように、飲み物を与えないような輩たちであれば。

 

しかし、もしこの壁がなければ彼女たちはもっと狂気じみてくるだろう。遺灰で作った仏像のような類の楽しみを見つけ出していたかもしれない。彼女たちはまだそこまでには至っていない。

 

文句を言いに来たボランティアに、彼自身が20才の時は何をしていたか聞いてみた。同じ状況にいたとして、もっと思いやりを持って働いていただろうか? 1日12時間、週6日間の勤務体制。有給休暇や、まともな社会保障もない。時給はビル工事現場で働く労働者より低い。もしそのボランティアが同じ仕事をやったとして、その若さでは6ヶ月以内に同じe壁fを作ったのではないか?  彼は突然理解したようだった。彼がアウシュビッツにいたとしたらどうだったろうか?人の置かれている立場に自分自身の身を置き換えてみなければ判断は難しい。

 

同じ男がさらに言った。

 

「それなら少なくとも、『患者が食事を終わるまでにトレイを下げるのは止めてくれ』と言ってくれないか?それも要求しすぎかね?」

 

彼女たちはそうするだろうが、それは依頼者の意にそうためであって、患者のためではない。だから彼がまずやらなければいけないのは、彼女たちの歓心を買うことだろう。患者を喜ばせるより、職員に気に入ってもらう方が難しいのは、経験上よく分かってはいるが、、、

 

「それなら、なぜ彼女たちは他で働かないんだ?」

 

e奴隷fの論理、すなわちホスピスの賃金は公定より低いが、時間外手当をもらえる。公式には違法だが、タイの法律は一筋縄では理解できない。彼女たちは、出来るだけお金を蓄えようとしている。その金は、幼い兄弟達の学費を払ったり、家族の負債を肩代わりしたりするために使われる。あるいはもっと平凡に新しい携帯電話を買うためであったりする。

 

雇用者は、彼女たちのニーズを巧みに利用し、時間外給を普通の勤務時間より少し多い目に支給する。最終的には、同じレベルの仕事をする人たちが、合法で職業上の危険がなく、社会保険の完備した職場で週40時間働いて得る給料より少し多い目の金を手にする。

 

この19世紀の給与体系にはどのような意図があるのだろう。金の額が問題ではない筈だ。寺の敷地内には高価で、無用の長物のような建物がいたるところにある。贅沢で馬鹿げた出費がそこかしこで見られる。その他の出費に関しても、彼女たちの雇用主はそれほど強欲に見えない。この矛盾を理解するためには、英雄的なホスピス成立初期に戻らねばならない。

 

当時、ある病院ではエイズ患者が廊下に据え置かれる運命にあった。看護婦の中には、まだ食事の摂れる患者に、一杯のご飯を棒で押し付ける者さえあった。WHO、世界保健機構が紹介した、『エイズ予防キャンペーン』これが曲解され、それをもとにタイ独自のキャンペーンを繰り広げた。タイ全国がこの攻撃的で馬鹿げたキャンペーンの犠牲者であり、その内容も地域文化の現状にそぐわない物であった。何処ででも起こりうることだが、支配者層には趣旨がいきわたってはいても、社会の下層の人々の現実を汲んでいなかった。戦略効果を判断する頃には、もう手遅れだった。貧しい人々は、患者の症状に心底怯え、医者や看護婦を含む中間層の人々は、HIV感染者の数に恐れを抱いていた。そういった事情から、その後10年以内にエイズが麻薬問題に継ぐ、タイにとって2番目の呪いと捉えられるようになったのも驚くに足りない。

 

そんな厳しい状況の中、頭脳明晰で慈悲深い僧が、一銭の資金もない状態で死期間近のエイズ患者を受け入れた。彼はその後、あらゆる局面で偏見や誤解と戦わねばならなかった。蚊によるエイズの伝播を恐れる近隣の村人との戦い。自身の倫理感のなさを認めない医者との戦い。仏教がキリスト教的価値観に汚染されているという見方をする一部の高位の僧とも戦わねばならなかった。一方、西洋的価値観に敏感な支配層、あるいはインテリ層は、仏教もついにマザーテレサを輩出したと考えた。彼らの後押しもあり僧に対するそれまでの風評とは一転して、資金やこの僧の昇進といった形の支援が届くようになってきた。

 

同時に患者の数も日に日に多くなっていった。僧はますます莫大な金を集めた。資金の流入を維持するためには、メディアを巻き込む必要があった。ジャーナリストの支援で、僧の神秘性が増していった。そして寄付の流入もそれに応じて増加していった。

 

その当時、僧の写真を握り締めて死んでゆく患者を何人か見かけたことがある。僧の置かれている多忙な状況は分かるが、その頃の彼は毎月新しい宣伝写真を撮りに2.3分立ち寄るぐらいで、病棟にはもう姿を見せていなかった。腐りかけの患者の身体を洗うのに飽き飽きした彼は、彼自身の本当の使命を敏感に察した。その点で彼は絶対に正しい判断をしたのだ。彼の本当の使命とはお金を集めることだ。

 

お金を集める。「そう」。でもどういう状況でどのような条件で? 篤志家がすべて博愛主義者と誤解してはいけない。人類愛のレベルは、小額の寄付をする人に高く、高額の寄付をする層には明らかに少ない。しかし私達は分別をわきまえねばならない。この種のホスピスが必要なのは高額寄付者なのだ。

 

このような高額寄付者の要望は実に様々だ。一番目のタイプは、ハードウェアに金を使うように指示を出す人々だ。実体のあるものに資金を使えば、金が他に流用されていないことが確認できる。次は、壁に彫った彼の名前が金色で彩られるのを要求する人もいる。世間が篤志家本人のe善行fを一目瞭然で見ることが出来るために。反対に名前が出るのを嫌がる人々がいる。その人たちはあらかじめ指定した納入業者や企業に資金を投入するようにとの指示を出す。この種e篤志家fのなかには、色々な人物が含まれている。彼らだけがこのホスピスのミステリーを説明できる。4番目は、記名式の領収書を要求する人、税金対策に使うのだ。そして、その他諸々。

 

こんなにバラエティに富んだ目的と意図で寺に関わりを持つ人々がいると、傍観者の想像をいやがうえにも掻き立てる。噂が飛び交い、政府機関からの怪しいスパイが次から次へとボランティアという名目で来たり、ジャーナリストの調査員が証拠集めに来たりする。これら勇気ある正義の男たちは、私が報酬なしで働いていることが理解できず、重大な秘密の一旦を担っていると疑っている。奇妙なe訪問者fが私におかしな質問を投げかけることもある。現実には、住職とは1年に数回ぐらいしか接触しないと彼らが知ったら、理解に苦しむに違いない。

私は、今書いたこと以外に何も知らない。これは本当だ。大きな使用されていないビル、過剰設備の会議室、崩れかけた大広間、使い物にならないコンピューターの数々や火葬場、度を越えた庭にかける費用。他の人々と同様、私はこれら諸々の現象を日々目にしているだけだ。

 

高額寄付者にとり、電気代や人件費、食費、薬品そしてホスピスで必要な高価な必需品は、関心の対象外であるというのは簡単に想像がつく。ホスピスは資金の使用法の決定権を握っていないので、妥協点を見つけ出さねばならない。

 

そのことを非難できるだろうか?私のような部外者にとり、このような責務を負うのを拒否する公的あるいは私的NGOの各機関の欺きと同等に思える。公的施設から拒否された患者が毎日2.3人ホスピスに運び込まれる。このホスピスの批判をする人々は、自分の信念と勇気を証明するために、これら死期の近い患者を喜んで受け入れるべきだ。非難の矛先を僧に向けながらも、彼の仕事を肩代わりしようとする人は今のところ誰もいない。

 

もし、このホスピスを批判するのなら、マザーテレサのそれも批判しないと片手落ちになるだろう。しかし誰がそんなことをする勇気を持ち合わせているだろうか? このエイズホスピスは、カルカッタにあるマザーテレサの死者の家より、遥かに高額の投資を患者にしている。ずっと多い。私は両方のホスピスで働いた経験があるので、確信を持ってそう言える。私がインドにいた頃のマザーテレサの家には、私がいま身を置くホスピスよりずっと多くの資金の流入があったろう。彼女は世界で69箇所、インド国内では90以上の組織の資金援助をしていた。しかし、カルカッタの薄汚れた死者の家では患者達は一番基本的な医療も受けていなかった。伝染性下痢がハエによって媒介され、マザーテレサのホスピスはベンガル地方の結核の温床の一つと言われていた。

 

慈善がこのレベルにまで到達すると、e小さな人間fや扇情的な低俗新聞の口を封じ込めてしまう。聖人も悪党もおらず、判断が不可能になる。例えば、マザーテレサの法律顧問は、「テレサはカルカッタのホスピスを宣伝戦略のために、あえて中世のような状況に放置している」と言っている。資金は金持ちの支援者から流れてくるが、その条件は貧しいという単純な概念である。そんな単純なイメージが彼らの財布を開けさせる。数百人の、非人間的な状況に身を置く浮浪者は、まさしく、金持ちが求めていた貧困の幻影に満ちた対象で、助けなければならない人々だ。

 

ひきもきらずにやって来るボランティアたちは、カソリックの世界にこの幻影を広げるための道具だ。頭脳明晰なジャーナリストやボランティアたちの中で、本気で捜し求めた者のみが「シスター オブ チャリティー」の本質に近づくことが出来る。

これで何千人もの窮乏者が少しでも救われるのであれば、この論理のどこが欠陥であろうか。マザーテレサあるいは気まぐれな篤志家が罪を犯しているのというのか?

 

金の件はさて置いて、ロップブリのホスピスに話を戻す。職員やボランティアや私の不幸、その根本原因は他にある。

 

住職は当初、プロジェクトの創始者として存在を誇示していた。彼はやがて資金集めや、広報活動にも才能を発揮しだした。大衆心理の専門家であり、メディアにも通じている。しかし、彼が作った病棟の変化を無視し、今では「死の生産工場」の観を呈するホスピスを小さな同族会社のように運営している。そこに私達の不幸がある。彼は科学者ではない。医学や病院運営について勉強したこともない。報酬についての彼の考え方や、人材募集、彼のe徳の基準fなどの謎を解き明かすのは不可能だ。ホスピスにとって、人材投資は敷地に点在する建物と同じようなものだ、反生産性の最高の象徴にしか過ぎない。

 

寺にすれば、何ほどでもない金額で出来ることに較べると、職業上のリスクは非常に高い。換気の悪い部屋で、充満する細菌と戦うだけでも4分の1のエネルギーを奪われる。別の4分の1を人間工学の問題で、さらに4分の1を個人的能力の不適切な評価で失う。それが私達を取り巻く主な問題だ。

 

グル
僧は偉大な宗教家なのであろうか?その判断を下すために、他の西洋人同様、私がよく

やるのはマハトマ ガンジー、ダライ ラマ、アヤトラ コメイニやその他の宗教家を通

して知る東洋的精神価値と、ユダヤ教とキリスト教に共通する慈悲の尺度と知的見識を比

べることだ。しかし、恐らくもっと他の尺度があるのではないかということに気がついた。

 

現実に、この僧は偉大な精神的慈善を施しているし、恵まれない人々に慈悲で接してい

る。そうすると分からなくなるのが、そんな同じ人物が、遺灰で仏像を作ったり、遺体を

展示したりすることだ。これらの銅像や遺体を見る人々の態度を観察していると、私自身の思考方法を振り返らざるを得なくなる。何らの抗議や醜聞も聞こえてこない。あっても西洋文明に影響をうけているとおぼしき人たちからの、抗議とも言えない控えめな言葉だ。ということは、現代の西洋文化の特徴とも言える、病的で歯止めがない感傷主義、私もその犠牲者の一人ということなのか? そう言えば古代の西洋でも遺体に防腐処理を施したり、頚骨を使ってフルートを作ったりした。ユダヤ教とキリスト教世界も、ミイラや遺骨など展示し、崇拝対象にさえした。

 

私がショックを受けたのは、遺灰の仏像そのものではなく、患者たちがたどるであろう道を、自身で目にする機会があるということだ。私が衝撃を受けているのは、死期が近い患者ではあっても自身の死にあれほどまでに無関心でいられる、まさしくそのことだ。反対に私たち西洋人は、煮え切らない苦悶の只中に毎日身を浸している。

 

僧の精神的価値について、同国人が彼をどう思っているかを知ろうとした。あらゆる階層の人々が彼を尊敬している。この国の宗教的エリート集団は、彼をどんどん高位につけていっている。私の患者の骨から仏像を作った彼を嫌ってはいたが、私達西洋人だけが絶対的価値の所有者ではないと気付かせてくれた彼を尊敬し、称賛している。彼は確かに正しい。この国の人々は私の同胞よりずっとよく笑う。私はこの国の文化を知りすぎた、それ故に、一介の観光客のような判断で満足できる。

 

やくざ

住職は、彼のコミュニティー、『死の村』の運営を1人の強い男に任せた。この男は、酒は知恵よりずっと大きな誘惑と見做されている小さくて、絶望的な世界の冷酷な支配者である。麻薬中毒者やアルコール中毒患者は行いを慎まなければならない。タバコは隠れてしか吸えないし、性的交渉は婚姻関係のみに限定されている。この男は、麻薬の売人や泥棒、そして暴力と対処しなければならない。一時期、病棟にやくざの集団が侵入したことがある。私も被害者の患者のあざや、傷口の開いた傷で初めて気がついた。怯えきった被害者は、文句も言えず、被害者のベッドの隣人も口をつぐんでいた。このホスピスに死にに来るのは、天使ばかりではない。

 

それゆえに、この小さな社会を崩壊から救っている彼に天才的なものを感じる。しかし私が思うに、彼は『組織』と『権威』を混同しているところがある。そこには組織は無く、あるのは混乱のみである。その混乱はマネージャーへの恐怖心から、破綻を免れている。

 

彼がこの重大な責任を全うしながらも、素質的には彼の同胞の大半と共通点があるというのを認めざるを得ないだろう。彼には慈悲というものがない、全くない。彼のスタッフや患者の苦痛は彼の意識の中にはない。

 

寛大さと慈悲

私は今まで、30以上の国を旅してきた。その経験を通しても、この国は世界でも一番寛大な国の一つであると確信している。しかし反面、慈悲がない。西洋人がこの矛盾を理解するのは殆んど不可能だ。

 

金持ちも貧乏人も、月末に月給の4分の1を寄付に来る。そして、まるで動物園を回るように、ぞろぞろと歩きながら病棟を見て回る。苦痛に苦しむ患者の写真を撮る、まるでサルのしかめ面を撮るかのように。私が診察中にドアが開き見学者のグループがなだれ込んでくるときがある。彼らは足を止め、私たちを取り囲み、あの、言葉では表現しようがない好奇心をあらわにしてじっと見つめる。それはとても不愉快で辛い瞬間だ。患者が既に死亡している場合や、裸の場合もある。患者の前立腺に私の人差し指があてられている場合もある。どのような状況でも彼らの視線を逸らすのは無理だ。私は、顔をしかめるが気付かない。それで、血や便の付いた指で彼らを指差すことで私の不機嫌さをあらわすと、やっと気がつく。もう少し観察していたいが、私たちが彼らの好奇心を嫌がっていると初めて理解するのだ。

 

「でも、彼らはもう死にかけているではないか。私たちは気前の良い篤志家なんだ」。

 

彼らは私の怒りを理解出来ない。私の機嫌をこれ以上損ねないよう、また更なる口争いを恐れて彼らはやっと移動する。また別の患者へと。

 

私も大半の審判好きの西洋人と同じように、西洋の倫理は普遍的で、このホスピスだけがおかしいのだ、だからここはタイ式倫理観の代表ではないと信じたい誘惑にかられる。そんな時はいつも、私がこのホスピスに来てから驚かされた事実をもう一度思い出し、再び自分の判断を見直さなければならなくなる。

 

一人ないし二人の子供を抱えた何百人もの母親が、浮気者の主人に感染させられたのが原因で亡くなっていったのを見た。その葬儀を何年も前から高価な抗HIV薬を飲んでいるHIV感染者の僧が執り行う。僧たちは犠牲となった子供たちにもお経を唱える。私はひどいショックを受けた。本当にショックだった。これら僧たちはどうして特権のある患者なのだ?

 

抗HIV薬を服用している僧は、僧職者のための社会保険のような制度から援助を受けている。高位の聖職者は、宗教的優先事項の選択を迫られた。その際、世界で少なくとも一人の聖職者、すなわちタイの聖職者が公的に、母親の命を救うよりは僧の命を救う方が良いと考えた。いや、これはなにもクリスチャンの世界でも多々見られる『偶発的事故』ではない。そして、この判断は国のエリート達によって支援された。タイでも一、二を争う高名な大学が僧たちの医療面でのケアをしている。そのレベルの医者が、国全体の倫理に全く準拠せずに、そのような行動を取るとは考えにくい。それから7年後も、ホスピスの幹部は、子供のいる女性感染者に抗HIV薬を服用する機会を全く与えていない。もし、ボランティアが普通の患者に抗HIV療法を受けるチャンスを提供したいと思えば、ガソリン代も含めて全ての費用を個人で負担しなければならない。運良く2003年10月より、政府は抗HIV薬が必要な患者に無料配布を始めた。

慈悲は普遍的価値があるものではない。タイ人が呼ぶところのタンブン(徳を積む)は、私たち外国人にとり、理解しがたい部分がある。しかし私はそれを審判する能力がない。私がしなければならないのは、どうしてタイ人は笑みを絶やさないのか、どうしてタイの経済的困窮者は西洋人に較べて貧乏を苦にしているように見えないのか?そのことを理解する努力であろう。

 

3階

彼は優しかった。恥ずかしがり屋でもあった。彼は多分ある日ペテン師に誘惑され、それがもとで肉体を食い尽くすこのウイルスに感染したのだろうと思えた。充分体力がついたので病棟を出るように言ったが、やせ衰えすぎて新しい生活をスタートさせる気力がなかった。それで「死人の村」に居残り続けた。

 

ある朝、彼は3階からコンクリートタイルの一階へ身を投げた。タイ語の出来ない訪問者は、鬱病や絶望あるいは、回復不能の病気を悲観したともっともらしく言い、別の西洋人識者は、患者は将来の苦痛を恐れて、あるいは完全な肉体的崩壊を食い止めたいという、道理にかなった願望を持っていたからと言った。真実は? 簡単だ。この可哀想な自殺者はお金がなかった。コカコーラを飲みたいがために、時々、うかつな患者や昏睡状態の患者からお金を盗んでいた。観察されていると気付いた時、ホスピスの幹部に報告され死の村から追い出されるだろうと考えた。盗みが明るみに出たときの屈辱、そのあと家族、家、お金のないまま、追い出されるのは彼にとって耐え難いことであった。それなら飛び降りて、残された惨めな将来を心配しない方が良いと思った。コンクリートの上で、死は彼を容易には受け入れてくれなかった。彼はおよそ1時間待たなければいけなかった。彼の頭を掴んだ時、顔の部分の皮膚の袋の中、頭蓋骨の骨が動いた。

 

そんな彼を哀れに思って、居あわせた職員に胸の内を言った。すると彼女はまるで私が泥棒の話を知らないとでも思ったのか、心の底からの純粋さで、「彼は見かけほど真面目ではないので、慈悲をかける必要がない」と言った。このホスピスで経験すること、その全てが奇妙だ。職員の純粋な気持ちの表現の仕方までもが。

 

骨と涙

8才、8kg。アムナットは理性的で、なおかつ頭脳明晰な少年であった。彼は最期の瞬間までその状態を維持するであろうと思えた。彼の母親が病床に付き添っていた。彼女自身も30kgにも満たない体重であった。家にウイルスを持ちこんだ夫は、5年前に黄泉の世界に旅立っていた。

 

アムナットは、別の子供たちが、彼より前にこのベッドを使ったのを知っていた。篤志家のドイツ人の施設に行き、高価で効果的な抗HIV薬療法を受けている子供たちだ。彼は、自分はその療法を受けられないであろうと、すぐに理解した。私も冷静にそのように決断した。彼を助けるのは遅すぎる。もう母親から引き離すべきではない。彼女の子供が、自分より早く亡くなるという確信は、彼女の不思議な幸福感の源であった。

 

アムナットは死ななかった。一ヵ月後、私は彼の延命に賭けてみることにした。かのドイツ人に交渉し、母親と息子を引き取ってくれるように頼んだ。もし抗HIV薬のeブラインド療法f(個体別の症状に合わせた治療法ではなく、とりあえず良いと思う治療法を試みてみる)をすれば、子供の命をあと2ヶ月引き伸ばすことが出来るであろう。ドイツ人は合意したが、高用量の薬での療法は、身体に負担が大きすぎて生き延びるのは無理だろうと言った。それでも私は抗HIV薬を投与した。その結果は、子供の苦痛を長引かせただけだと感じた。約10日後、彼自身が療法を止めて欲しいと懇願した。アムナットはその翌日死んだ。

 

1人っきりになった母親は2週間後、自分の意思で病棟に入ってきた。彼女には疲労以外には特別な症状が全く無かった。私は彼女に向精神薬をもたせ、部屋に戻した。しかし、彼女は戻ってきた。食事や水分をとらなくなっていたので、点滴を始めた。翌日、彼女は点滴を外してくれと頼んだ。

 

「アムナットが呼んでいるの?」

 

「そう。彼が私を呼んでいる」

 

私が点滴を外した数時間後、彼女は息を引き取った。希望、それは命さえも奪う毒になりうる。

 

少年とガラスの入れ物

「死者の部屋」は、艶消しをした大きなドアで仕切られており、それが遺体の配置に良い遠近感を与えていた。ある夜、ドアは大きく開かれていた。中では4人の僧が、ランプを持って不器用に何か壁に貼り付けようとしていた。僧と遺体の影が、時折外にまで届き、砂利道を照らしていた。

 

ドアから程近い欄干に腰掛け、動く光に照らされながら少年は僧とガラスの棺桶を見ていた。一ヵ月後か一年後、その孤児は素っ裸になりこの不思議な水槽に納まる。彼もそれを知っていた。彼はそれに抗うには幼すぎた。彼がこの村に受け入れられたのは、子供の遺体のほうが、大人よりずっと興味を引くからだ。少年は知っていた、その部屋には既に2人の幼い少女が安置されているが、男の子はいないということを。彼らが少年を待っているのを知っていた。知っていたのだ。ある大ばか者が、なんの配慮もせず少年にそれを伝えたからだ。

 

私は怯えた。遠くの物陰から彼を見ている私に少年は気がついた。彼は私を見て去って行った。彼にとり、私は死のシンボルであるのを知っていた。私は人々が苦しみ、生きて出ることのない部屋でしか見ない人間であった。彼は以前3度、力ずくで私のもとに連れて来られた。そのたびに心の底からの恐怖心で叫ぶ。

 

彼はトンと呼ばれていた。

 

一度、たった一度だけ、病棟の外にいると、トンが私のところに来て、身体を摺り寄せた。多分30秒間ぐらい、たったそれだけ。その30秒間の間に、私達は説明できない何かをやり取りした。そのことを思い出すと今でも鳥肌が立つ。30秒間、たったそれだけ。私は完全無欠の親密さを経験した。出来ることならもう一度その時に戻りたい。私にとっては至福の時間だったから。しかしこの喜びや、至福を感じる私を軽蔑する。なぜなら、それは甚大なリスクであるがゆえに、私を怯えさせるから。

 

今回のエピソードは人生初めての体験ではない。時々、私自身から何かが発散しこの奇妙な感覚がひき起こされる。数年前、バンコックで同じ経験をした。大きな病院の診察室で別の医師とフランシスコ会の修道士と話していたときだ、トンより少し幼い、可愛い少年が部屋に入ってきて、すぐに私を目がけてやって来た。子供は、医師と修道士を知っていたが、私のことは全く知らなかった。彼は私が抱くまで、足に身体をすりつけ、それから私達はこの説明のしようのない、力に溢れたe何かfを交換し合った。

 

居合わせた者は、私がただ単に抱き上げただけではない、というのを見てとり興味をそそられつつも戸惑っていた。私は子供の抱き方など知らない。その子供もHIV陽性患者であった。その夜、家で、私はその日に起こったことに心をかき乱されていた。その出来事には、説明不可能な予感があったような気がする。何度も何度も考え、納得のいく解釈をしようとした。その経験は私を不安にさせた。

 

もう小さな子供でもない患者に大げさすぎる愛情表現は無用だ。まだ学生だった頃、小児癌病棟での経験だ。ある半身不随の少年患者が「強姦」された時の、怯えたような目を見た。一面識もないe寛大fな女性の訪問者が、彼女が言うところの「愛を与えに」病棟に来た。絶対に忘れられない光景だ。彼女は可哀想なその少年を、ヒステリーなアメリカ人女性が愛犬を抱くように(犬は他の人のように、絶対に彼女を拒否しない)胸にかき抱いた。少年は嘔吐し始めた。

 

このように、自分自身の欲求不満に気がついていない輩は多い。彼らは、ヨーロッパ、アジア、そして特にアフリカの孤児院、被虐待児童のシェルター、小児病棟などに押しかける。人道主義のアマチュアは無視される権利を理解しない。私は彼らのようにはなりたくない。彼らのような、人道的観光客になるのを恐れている。

 

最初にホスピスに来た当時、犬が毎日病棟の前で私を待っていた。最初の日から犬は私が大好きだった。ある一匹が特にその点をハッキリさせたがった。遠くから、私の臭いを嗅ぎ付けてうめき声を上げた。私の足に身体を投げかけ、抱くように要求した。犬を放すと、私の脚に飛び掛り、卑猥なポーズをとった。それを見ていたのは、全員が女性だったが、笑う代わりに黙って赤くなっていた。今はもう私は冷酷な男になった。犬は私を怖がっている。

 

この世の現象は、複雑なトリックで私を混乱させようとしている。数週間後にはガラスの棺桶に入りホルマリン漬けにされる運命のトン。彼とのあの30秒間は、私が「冷酷」になってから初めての奇跡的出来事であった。それ以前の4年間のホスピスでの日々は、私をe厳しい男fに変えていた。その長い年月、あれほどの患者を前にしても私の手からは、決して本当の「優しさ」が溢れ出してはこなかった。

 

今年の犠牲者は558人。私はその現象を潰れる膿瘍のように見ていた。

 

患者の苦痛をやわらげることができない時がある。そんな時は、囚人のように身体をくねらせ痛みに耐える患者をじっと観察している。目を大きく見開き、窒息状態を耐えている患者、彼の目は怯えきって私を見つめている。こんな情景がもう私を傷つけないなんて、一体どういうことなのだろう。

 

病棟の中央部あたりで最期の時を迎えている子供がマッサージをせがんでいる。トンだった。しかし、私は彼をマッサージできなかった。彼は数時間後に死んだ。そのとき初めて我に還った。そして何かの作用が脳内で起こるがままにしておいた。ついに、しかるべき恐怖感を持って私の脳内で起こっているそれを冷静に観察した。心身に有害な恐れを。それと同時に有害な感傷を。トンはゾッとするような状態で死んだ。「万能の神よ!もう充分です。酷すぎます」。

 

 

 

知覚の変形

 

ハッピーバースデイ

ラジオからeハッピーバースディfが流れていた。英語が少し分かる患者が歌いだした。

「ハッピーデスデイ トゥ ユー(死亡日オメデトウ)」。患者全員が理解した。皆で唱和した。彼らは笑って、笑って、笑いが止まらなかった。私も笑った。

 

感傷

ある西洋人ボランティアがうつ状態の患者が泣いているので、様子を見て欲しいと言ってきた。彼のもとに行くと余計に泣き出した。根拠のある悲しみではあろうが、「厳しい男」の私はすぐに飽き飽きし、緊急の患者が待っているからと言ってその場を離れた。3人目の西洋人が交代で彼のそばに行った。患者はまた泣いた。遠くからこの様子を見ていた職員の一人がベッドに来て、笑わせようとした。彼女はそれを数秒以内でしてのけた。

 

彼女のやり方は、状況を軽く捉えすぎていたかも知れないが、反面、西洋人も気がふれている。私たちの未成熟さは喜びをもたらす。それは無意識、あるいは考え違いのサドマゾ的関係を臭わせる。私たちは、まるでお涙頂戴の映画を見に行くかのごとくホスピスに行く。心揺さぶられるセンセーションを求めて。

 

「私から死者たちを奪わないで。私に美しい奇跡の口実をあたえるため、彼らはもっと苦しまなければならない」

 

「彼らの苦しみの中で、私は偉大になる。彼らの涙の泉で私はこんなに美しくなる。私を見て! 私達を見て! 私の慈悲のおかげで、高貴なものになった涙を!」

 

『私』は新しく来たボランティアが働いているのを見る。そして自分自身を見る。私の鏡? 鏡に映る自分に、『私』は氷のように冷たい。私も自分の魂を、涙の泉や悲劇的な自己過信そして私の手から奇跡がもたらされる、という思いで一杯にする事がある。科学、芸術、ビジネスに才能があるわけではなく、素晴らしい子孫さえ残していない私ではあるが、ここで自分を好きになったり、存在を正当化したりする要因を見つけた。私も作為の神聖さを求めたが、それで疲れきった。患者を力づけるのではなく、一段下にみるような卑屈な感傷主義に陥っていたのも確かだ。そんな卑屈な感傷は、真実をどのように直視するかを会得するまで私たちを翻弄し続ける。

 

親しい友人に、悩みをもらしたことがある。「私がe強い男fになってからというもの、苦痛に苦しむ患者に本当の慈悲を施せない」と。友人は、自分を何様だと思っているんだと聞いた。そして、死期の近い患者は私の感傷主義を笑いものにしているかも知れない、と付け加えた。

 

「彼らは、君の薬が欲しいんだよ。感傷ではないよ。専門知識と、効き目。涙ではない。もし出来れば、e慈愛fは良いかもしれない。たっぷりとした慈愛。無意識の非個人的な慈愛。まるでハープのカーブのような、または古い皮の肌触りのような慈愛。過度の母親ぶりを演じるのは、人々を混乱に陥れるだけだ。苦しんでいる人を赤ん坊扱いすべきではない、たとえ彼らが少年であっても。

 

彼の話の妥当性にショックを受けた。特に驚いたのはe慈愛fについてのくだりだ。慈愛にはずっとこだわり続けていた。突然、固く結ばれていたと思っていた、愛すべき糖蜜のような呪縛から解き放たれた。とうとう私は分かった。私の一番素晴らしい慈愛の経験は、匿名で将来への干渉がない。あのコーラットの2輪の花のように。

 

慈愛の達人は、大理石のように冷たく映る人物かもしれないが、何者かも分からないまま、誰もが何年も尊敬を禁じえないような力に溢れている。この強烈な慈愛は、性的に言えば、e他者fを恐れさせず、私を最も繊細な喜びに身を投じさせる。感傷もこのような経験を可能にするかもしれないが、感傷は餌食のように私達を弱らせ食べ尽くしてしまう。

 

文字通り氷のようなオランダ人が来た。彼は寡黙な人であった。到着後の数日間は病棟を観察していた。患者が喉の渇きに苦しんでいる時に、犬に餌を与えるのに夢中な、仕事に飽き飽きしているスタッフ達。成功か否かを問わず、奇跡遊びを試みている西洋人。それが終わると、彼は結核から身を守るために手袋とマスクをつけ、周りの人間に非難の言葉を投げつけることも、感傷に陥ることもなく、名前さえ分からぬ患者の排泄物や嘔吐物を処理し始めた。誰に声を掛けるでもなく、黙々と、一人終わると、また一人と。

 

私が、患者の症状で見落としたと思えるもっともな理由があれば、患者の痛みを簡潔に伝える。彼は必要以上のことを付け加えない。もし私がそれを忘れていれば、繰り返す。患者の苦痛が治まらなければ、もう一度その旨伝えにくる。

 

最初、この熱心なe掃除夫fを見て、患者たちは排泄や嘔吐の度に彼を呼んだ。彼らは、このe掃除夫fの能率の良さにビックリしていた。彼一人で職員の5人分の仕事をこなしていた。e奴隷fたちは、そんなボランティアに感動し、私に伝えた。彼の存在が控えめであったので、私が彼の仕事に気がついていないとでも思ったようだ。彼女たちの称賛の意を私に伝えて欲しいと言ったが、彼はそんな褒め言葉には何の興味も無い。

 

患者達の間でも、そのオランダ人が話題になった。患者は彼を尊重し、めったなことでは彼を呼ばなくなった。自分の順番が来るのを静かに待つている。患者は彼の前で涙を見せない。自分のことより、彼のことを優先して考えるようになった。

 

オランダ人は帰国した。彼がまだ名前も憶えていない生存者たちは、彼の不在に戸惑った。そして私たち皆が、彼の優しさを懐かしく思った。それがおそらく、『神性』であろう。

 

私は我々の持つ尊厳の崩壊の証人であり行為者である。西洋倫理に一貫性と評価を与えるe尊厳の美fを損なうのに貢献した。e真の慈善fはその僅かな形骸を残すのみとなり、あとは曲解されたロマンティシズムや有害な感傷主義に屈した。メディアがこの感傷主義を煽った。今日、西洋は病み、その他の世界は差し迫った危険にある。

 

感傷、私はあなたを愛する。しかし、私はあなたを信じないことにした。あなたは真の価値を見失わせる遊びを私たちにしかけている。あなたは私をおもちゃにしている。あなたは欠点を美徳に見せかける技の名人だ。今まで告発された集団墓地の何処ででも、あなたの影を見た、圧制者を支持するあなたの影を。でも、あなたは風より移り気で、私が見たものを告発する手伝いを申し出た。

 

感傷よ、私はあなたを愛する、でも憎んでもいる。あなたは宗教、人種、故国や家族を口実に、苦悩を過度にごまかしている。あなたの雄弁さに誇張され、e違いfを恐れることで、排斥や、罪を問われない政治的大量虐殺が起こる。

 

感傷よ、私はあなたを愛する、でもあなたの臆病さを憎んでもいる。あなたが愛を恐れているのは知っている。なぜなら、愛は優位にあり、もしそれに反抗すれば、あなたを十字架刑にするのも厭わないから。あなたのあまたある才能の共通点は卑屈さだ。愛は所有欲、盲目、嫉妬心、高圧的直感を伴う。それが例えば母親を新生児の世話をするのに駆り立てるのを知っていて、あなたはこの直感と、それら本能の土壌になる愛とを混乱させる。古代からこの本能がゆりかご以外の領域を支配しだしたら、伝染病のように危険だと言うことを知っている。しかしあなたの行動は広大な領域に侵入している。新生児にとり母性本能は、命を育てる源だが、もっと年上の世代や患者にとり、後退や死をひき起こす。

 

子供や、苦しむ患者あるいは神経症的傾向のある人々を、赤ん坊のように扱うのは倒錯的快楽の一種だ。そこには弱者を制圧する喜びがある。本当は弱者が必要なのは武器であって、彼らを砕き引きずり下ろす抱擁ではない。「あれだけ、してやったのに!」。その赤ん坊たちがしかるべき強さを持つたり、回復するや否や反撃に出ても驚くべきではない。

 

思春期の青年達の叫びにはゾッとさせられる。小学校に上がる前に、武装解除させなければいけなくなるのももうすぐだろう。精神的、肉体的に未熟という理由で、性的な部分を否定されたことにより、彼らはポルノグラフィーや反道徳的な闘争の天才となった。

 

絶対不服従、赤ん坊のように扱われるのを拒否、永遠の自由で私達を傷つける、これら狂気じみた人々は昔、私たちとともにあり、現実を理解するのを手助けしてくれた。今、彼らは隔離されている。彼らは怒っている。しかし誰も、彼らが隔離施設でどれほど品位を下げさせられているかを思い切って言わない。

 

弱者や神経症の人は、反抗しないが一層手強い。彼らはあの病的なゲームに興じる。気難しく、催促がましく、気まぐれ、自己中心主義になり、どうしようもない精神状態に身を置いている。あるものは薬物を選び、別の者は人と人との違いを認めない。心理学者に彼の弱さの責を負わせる者もいるだろう。

 

感傷をしっかり縛りあげよう!

 

感傷ではなく、もっと執拗で、革命的な、融合ではなく、私たちを共生に導くような何かを持とう。

 

それでは、子供は? 両親は? 狂人は? 患者は? 彼らには融合も強制も鎖もいらない。必要なのはただ一つe優しさf。e優しさfのみだ。それは『愛』の究極の形。いつも本能に敏速に反応するが、理性を賛美するのは緩慢、それが今日ある感傷。その魔力は私を怯えさせる。死んだ子供が私の無知を正してくれた。私の隔世遺伝的感傷癖は真に治った。それ以来、私は知的面でもっと機能的である。

 

ソーシャルワーカーが私の家に来て、2人のHIV陽性反応の少年を紹介したことがある。1人は9才、もう1人は11才で既に結核に侵されていた。学校が彼らを受け入れなかったので、二人とも文盲であった。私は抗HIV薬について話をしたが、ソーシャルワーカーの説明では、2人が孤児なので、地域の病院での診療を拒否されたとの事であった。他の患者が優先された。骨の髄まで氷の如く冷静沈着であれ。この点で、その医者は正しいと思った。

 

私は、感傷主義から殆んど解き放たれたと思っているが、まだ苦しむ。「神よ! この子供たちが絶対的に優先ではないなど、許されていいのだろうか?」。そうだ。母親がまず最初だ。子供には母親が必要だ。その後は、生存を勝ち取るためにどう戦ったら良いか知っている人々。子供の後に続くたった一つのカテゴリーは、麻薬中毒患者だ。西洋社会は絶対にこれを承認しないだろう。でも西洋が間違っている。

 

しかし現実には西洋式思考方法が勝つだろう。人食い願望に満ちた1人のタイ人観光客が30人の瀕死の病人の中で、自分のグロテスクさを理解せず叫んだ。「死にかけの子供は何処?何処にいるの?」。

 

 

4

 

 

より高いレベル

当初タイのエリートはエイズ問題を立ち止まって考えなかった。警告のサインは最初、宮中から出た。

 

戦いの初期は敗北だった。ヨーロッパ、アメリカに影響された予防政策は効果を上げなかった。公式にはタイのHIV感染者は100万人と発表されている。現実はより一層悪いだろう。200万人? それとも300万人?

 

国家の上層部で反撃策が準備された。健康保険システムに重要な手を加えると共に、国家の医療ニーズに合わせ、産業部門の専門家とのタイアップを図った。この合併の結果、素晴らしい製品が2002年に紹介された。抗HIV薬eGPO―virfである。この薬は、3種混合の抗HIV薬で、世界でも一番安価なカクテル剤の一つである。朝一粒、夕方一粒という簡便さは、抗HIV薬療法の一番の失敗の原因が、「患者が服用規定を厳守しないため」ということを考えれば賢い戦略である。タイのエリートは、文句なく良い仕事をしたと言える。薬は一般のタイ人にとりそれでもまだ高かったが、一部の患者は、病院で無料の割り当て分を受け取れた。

 

タイの医療界に、2つの違った取り組み方が見られるようになった。一方では、高潔な医師がHIV菌に拳をふるう。一部の病院は、患者を助けるために赤字経営を余儀なくされているだろう。もう一方は、金持ちを除いてなんの突破口も開かず、患者はホスピスに押しやられる。公衆衛生従事者の一部は、いまもこれら患者を怖がっている。私はそう確信を持って言える。一部の医者はエイズが怖いのだ。それゆえ今でも珍しくもない肺炎、トキソプラズマ症または疥癬のような病気ともいえない感染症で死ぬエイズ患者が引きもきらない。私は、それを証明する写真を持っている。

 

2番目の大躍進は200310月に起こった。エイズ禍に苦しむ国々の、真の爆弾。政府はエイズ戦争を支援し、先進国にのみ許された冒険に加わることを決めた。3種混合の

抗HIV薬が、それ以降は全てのエイズ患者に無料で支給されるようになった。医療従事者は歓喜した。病院によってはこの良き知らせの持つ使命を完璧にこなせる体制がすでに出来上がっていた。10月革命以前に、何千人もの患者がチョンブリを初めとする地域で、

抗HIV薬療法を受け始めていた。

 

反面、病院によっては、抗HIV薬を管理するに足る知識を持ち合わせた医者がいない処もあった。そのような病院では専門家不足のため、政府からの割り当て分の患者数のリストが埋まらず、高価な薬が使われぬまま使用期限を迎えるという現象が起こっていた。眼科医の中には、日和見感染症に侵されたエイズ患者の目を治療するのではなく、心の平安を瞑想センターで求めるようアドバイスした者もいる。医者によっては、他の患者を心配させないために、エイズ患者の定期検査の際、患者を分離した方が良いなどと考える者もいた。

 

3番目はそれほど大きなインパクトはないが、象徴的な意味合いがある。20047月、国際エイズ会議がバンコックで開催されることになっているが、20041月現在、既にその影響を感じ始めている。頑固な医者が改心し、仕事上の目標を持ち出し始め、研究者もホスピスに姿を見せるようになった。次第にトキソプラズマ症や乾癬のような平凡な症状の患者が送られてこなくなり、根治不能な感染症が増えてきたように思う。私が病院に送る患者たちも以前に較べれば歓迎され、より熱意を持って検査されるようになったと感じている。

 

タイ人紳士

20035月、HIV陰性で上品かつ人当たりのよい笑顔を持つ、一人のタイ人がホスピスに姿を見せた。タイ人ボランティアが私達を驚かせることはあまりないが、この若者は、真に注目に値した。彼はタイ語、英語、スペイン語を流暢に話せた。車を何台も所有し、高級ホテルに泊まっていた。多分彼は金持ちの家に生まれ、絹を身に付け、ミルクと蜂蜜で育てられたのだろう。まあじっくり観察してみよう。

 

ある日、この要領の悪い若者がテーブルの上に携帯電話を置き忘れた。一人の職員がそれを見つけ彼に渡す時、ホスピスでの盗難の多さを挙げ注意した。繊細さに欠けるこの青年は、上流階級というよりは中流階級層によく見られる快活さで、「その携帯電話は安物なので、そんなに大した問題ではないよ」、と答えた。可哀想なe奴隷fは怒りをこらえた。彼女が同じ物を買おうとしたら、まる一週間、112時間働かねばならない。この若きブルジョワのその後の評判は芳しくなかった。彼はその時点で既に、職員に専門家のような助言を与えたりしていた。彼の言動を見聞きするにつけ、この若者はタイに溢れかえっている、いわゆるニューリッチと呼ばれる中流家庭出身の一人に違いないと思った。

 

間もなく彼に対する私の判断を修正せざるを得ないときがきた。彼は、川の水のように途切れることのない嘔吐や下痢にも怯まず、休みなく働いた。患者を散歩に連れ出したり、酷い疥癬の患者をきれいに拭いてあげたりした。絶望的な精神状態にある患者の話を聞き、患者のニーズと問題に対処するため駆け回った。休憩をとらず、週末も忘れ、何週間も何ヶ月間も私たちと共に働いた。

タイ人が無給でこのような行動をとるのは驚異に値する。ホスピスの幹部さえ疑いだした。噂が噂をよんだ。曰く、彼は医学の研究者、政府のスパイ、タイ社会の機能障害についての論文を準備中。さらに、彼はセクトの一員、麻薬ディーラー。患者のため、何か永続的効果のあることを達成するために心から働くボランティアの大半がそうであるように、彼も何千もの侮辱、何千もの誤解を耐えねばならなかった。そんな試練をやり通すことが出来たのも、彼には患者がいたからだ。

 

頭脳明晰で、どんなタイ人よりもタイ人であるこの青年は、何人もの患者の死に涙を流した。彼は私の医学上のチャレンジが失敗に終わるのを目撃した。病院に患者を送るのは無駄だということも理解した。他の国ではエイズの治療に道が開けており、効果があるのが証明されているにも関わらず、タイではエイズがいつも最後の鍵を握っている、その現実を彼は認めようとはしなかった。

 

私は彼、エークを真の挑戦者だと思った。歩兵部隊兵で飛行部隊兵ではない。問題の核心に飛び込む人間で、その上を旋回するタイプではない。しかし彼はe上 fから来た。エークは私の第一印象をくつがえした。 彼はe崇高な王国fタイが生み出した、e特別なタイ人fであった。帝国主義の時代、周りのアジア諸国がヨーロッパ植民地主義の嵐に陵辱されていた時、イギリスとフランス、両国との友好政策を同時に維持し続けた、タイの懐柔派の人々。その人々を髣髴とさせるe価値ある子孫fがエークであった。

 

エークは彼自身の改革運動を志した。e窮乏者中の窮乏者に抗HIV薬をf。それは20037月であった。彼は最も適切な時期に、改革運動を始めたということになる。その頃の噂では、政府はその野心に満ちたプロジェクトを近日中に実行に移すことになっていた。

 

そこでは2つの社会的階層に属する人間の対決があった。中流階級出身の戦士、エークと、上流階級の支配者たち。戦士のうしろでは、アンタッチャブル、つまり希望を持ち始めた私たちの寝たきりの患者たちがいた。

 

絶え間のない戦い、しかしタイではいつもそうだが、戦いは丁寧で戦士は笑みを浮かべている。住職からは何の援助もない。ホスピスの管理部門からも、一片の物的支援もない。その間、行く先々の病院で、気さくさ、善意、軽視、決定的無能ぶり、管理の不備に翻弄された。

 

エークの固い決意が分かると、医者や看護婦の中には自分の無能ぶりや怠惰を覆い隠すために、彼を公に侮辱する者までいた。

 

最初はエークの支援者は数人のeファラン(西洋人)fに留まっていた。まず、レニー、ボランティアの女王。オランダ人女性でもう何年も私たちと一緒に働いている。レニーはいわゆる見習いの尼ではない。彼女のボランティア期間中に3,000人以上の死を体験して現在に至っている。彼女の支援は頼もしい。多分エークが精神的に耐えられたのは、彼女の支援のお陰だろう。長い年月の間に、レニーはボランティアのチーフ的立場になり、彼女の直感がボランティアの質をかぎ分ける。ロップブリの看護婦も改革運動に加わった。そしてチョンブリの医師も彼に力を貸した。

 

エークは何10万バーツもの個人的な金を出し、何千マイルもの距離を車で走り回り、全国の病院から病院を回ったが、追い返されたのも一度や二度ではない。医者によっては、あの、終わりのない遅延ゲームを演じた者もいる。その医者たちは、本心では私達の患者が死ぬのを待っていたのだ。一方患者たちは希望に胸を膨らましていたが、貴重な薬が届く数日前に死んだ者もいる。

 

グッドラック、エーク。あなたの同胞はあなたの価値を理解出来るだろうか?君の戦いは、タイのための戦い。私のはそうではない。私は、手遅れの患者たちのために働く。

 

モー イブ

20041月、ロップブリ市にて。

 

この文章は、フランス語で出版される、より野心的な作品(そのテーマはエイズとは直接関係がない)の抜粋である。この本は20047月の国際エイズ会議に合わせ出版された。ここで強調しておきたいのは、生存中の世界中のエイズ患者の大半が、包括的な抗HIV薬療法へのアクセスを封じられている事実である。会議の参加者や科学者が、これら患者に臨床的リサーチの価値を見出すことは可能であろうか? 私たちが今緊急に必要としているのは、いまだ未知の部分が多い治療不能のエイズ関連の病気の、より改良がすすんだ安価な診断機器だ。それがあれば、患者の命の質をより一層高めることが出来ると同時に延命効果も期待できる。

 

限られた設備を使っての、エイズ患者の終末医療に興味のある方は、私のウエッブサイトを訪問されることをお勧めします。

 

 www.AIDS-HOSPICE.com.